以前、ゲームにおける選択肢がもつ性質やある種の禁止事項について書いた。
簡単に要約すると、この過去記事では遡及的な選択肢(その選択肢をとることで、選択肢以前に決まっていたはずのものごとが変化するような選択肢)の奇妙さについて書いた。たとえばDQ1のりゅうおうによって提示される選択肢では、「この世の半分をお前にやろう!」の選択肢に「いいえ」と答えるとラストバトル・エンディングに続くが、「はい」と答えると宿屋で目覚めてそれまでのやりとりが夢だった夢オチの展開になる。選択によってそれまでの状態が夢だったか現実だったかが遡って決定されるのは奇妙だろう、という話である。
また、記事の後半では、この奇妙さを逆手にとった演出への利用の試みについても触れている。
選択肢についてはもうちょっといろいろ書きたいなと思っていたところ、先日、フォロワーが、ゲームにおいてどの選択肢を選ぶかは事前に決定されている(「選択」は行われていない)話題などあれこれ語っていて、オモロそうだなと思った。
okimochivation.hatenadiary.jp
(このへんの記述は詳しく書かれていなかったので残念、書いてほしいな〜)
今回の記事では、ゲームにおける「選択肢」とは何かを歴史から振り返り、さらに、選択肢の存在に疑問をなげかけるアンチ・選択肢の実例と、その試みや演出意図について書く。
「選択肢」前史
まず、物語構造における「選択肢」がかつてどのような形をしていたかをみてみよう。
チュンソフト「弟切草」(1992)は現代のノベルゲーム・ビジュアルノベルの形式の草分け的存在と言われている。
ここでいう現代的な形式とは、
①文章が主で、テキスト中に「選択肢」が挿入されること(テキストの主体化)
②選択肢によって展開が分岐すること(フローチャート式)
③エンディングが複数あること(マルチエンディング)
といった特徴をもつことである。
これらの特徴を「弟切草」以前や、この頃にでた90年代のアドベンチャーゲームと比較してみよう。弟切草以前に選択肢のメインストリームは、おおよそ
コマンド入力式:
コマンド待機画面で「シラベロ」「イケ」などのコマンドを文字で入力する。
「ポートピア連続殺人事件」「MYSTERY HOUSE」など
か、
コマンド選択式:
コマンド待機画面で、「調べる」「話す」などのコマンドの中から次の行動を選択する。コマンド入力式から発展したもの。
「北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ」や「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」など
で、「弟切草」がテキスト→選択肢→テキストと、テキストのみで進行する(①)のと比べて、コマンド式はコマンド待機状態→コマンド入力(選択肢)→テキスト→コマンド待機状態と、コマンドの待機状態をベースとしたプレイが行われていた。
また、「弟切草」が選択肢で物語を分岐させ(②)、複数のエンディングをもつ(③)のに比べ、コマンドタイプのゲームはそれぞれのコマンド待機状態で正しい選択肢を選ぶことで次の段階にすすむ一本道の構成であり、エンディングも基本的に1つである。
以後、チュンソフトは「弟切草」を皮切りに、サウンドノベルと銘打ち「かまいたちの夜」など、同様の形式の作品を発表した。「弟切草」方式は革新的だったようで、それからの他社のノベルゲーム・ビジュアルノベルでも盛んに用いられるようになっていった。
後にマルチエンディング方式が大きく花開いたのはアダルトゲームの世界だったが、その先駆けであるLeaf「雫」(1996)にはこんなエピソードもあったそうだ。
サウンドノベルの手法でアダルトゲームを作るという前代未聞の試みについては、当初Leaf社内でも賛否両論が巻き起こった。協議の末、Leaf上層部からGOサインと引き換えに提示された条件は「開始5分でHシーンに辿り着けるようにせよ」というものであった。ゲームの形式はどうあれ、まずはユーザーが性的な欲求を手軽に満たせるものでなければ、アダルトゲームの市場には送り出せないという判断である(1998年「TECH GIAN」インタビュー記事より)。
その結果、本作では物語序盤の選択肢において捜査依頼を断るだけで簡単に性的描写を伴うシーンに辿り着くことが可能となっている。尤も、その内容は「主人公は無気力な暮らしのままに卒業の日を迎えるが、卒業式の最中に突如参加者全員が発狂し、「仰げば尊し」を合唱しながら乱交を繰り広げる」というバッドエンドである。(Wikipedia「雫 (アダルトゲーム)」より)
マジで何?
世界の整合性:弟切草・かまいたちの夜
前節では「弟切草」「かまいたちの夜」が現代ノベルゲーム・ビジュアルノベルの草分けであると述べた。
しかし、実はチュンソフトによるこれらの作品、現代的なメインストリームのマルチエンディング作品の構造とは決定的に違う点がある。
現代のメインストリームでは、選択肢によってストーリー・エンディングが分岐するものでも、背後にある過去・設定は共通で、静的なものである。ここでは、選択肢による分岐は現実世界における「あの時ああしていればどうなったかな……」という、ありえたかもしれない可能性、別の行動をとったIFの世界に対応している。
対して、「弟切草」「かまいたちの夜」は、選択肢によって分岐する世界が整合していない。
どういうことだろうか。「かまいたちの夜」や「真・かまいたちの夜」シリーズを例にとって説明しよう。「かまいたちの夜」のメインストーリーは、雪山の山荘に訪れた人々が不可解な事件に巻き込まれる「ミステリー編」だが、選択肢によってはそれとは全く違う物語が展開する。「スパイ編」で登場人物たちは各国からきたスパイであるということが明かされて諜報合戦がはじまるかと思えば、ダンジョンと化したペンションを探検するストーリー、エッチな展開になるストーリーもある。ミステリー編では登場人物はスパイではないし、ピンク編ではミステリー編ベースだとすでに死んでいたはずの人が死なずに出てきているなど、選択肢によってドンドン過去が遡及的に決定されていく。
ここでの選択肢の機能はもはや先の例のように、現実世界の「あの時ああしていればどうなったかな……」のIFの可能性分岐とは大きく異なる。ここではいわば、選択肢が選ばれる前は、たくさんの物語の可能性(可能世界)が重なりあって存在していて、選択肢は「それがどの世界の話だったか」を後付けで決定する機能を持っている。
チュンソフトは以降の作品でもこのような後付けで世界を決定する機能の選択肢を用いていたが、後のノベルゲームのメインストリームは、わかりやすい一貫した世界(過去・設定)でのIFを見せる機能の選択肢が覇権をとることとなった。
分岐する物語
前章で、選択肢は「あの時ああしていればどうなったかな……」という、ありえたかもしれない可能性、IFの世界を分岐させる機能として用いられるようになったと述べた。そこからさまざまなゲームがマルチエンディングとして生み出されていったわけだが、ここで注目したいのが、「エンディングが複数ある」のは小説や映画など既存の物語の形式にはあまりなかった特徴だということだ。
考えてみると、「お話」が複数の結末をもつというのはとても不可解な状況である。
実際にあったことがストーリーとして語り直される場では、物語が分岐することはありえない(過去はひとつしかないため)し、時間芸術である映画や戯曲、はじめから順番に読むよう方向づけされている小説でも、分岐の構造は基本的に生じえない。
強いてあげるなら「女か虎か」のような、「このあと、どっちになったのだろう?」を想像させるリドル・ストーリーのオープンエンドがこれに近いだろうか?
https://ja.wikipedia.org/wiki/リドル・ストーリー
が、リドル・ストーリーも「どちらの結末が正解なんだろう?」を考えさせる「どちらかが正しい」想定な以上、分岐した物語のどちらもが正しいマルチエンディングは、物語構造において全く新しいパラダイムと言える。
こうして、「あそこでああしていればどうなっただろう……」を実際に見せることができるこの方式は、物語展開の可能性を大きく広げることとなった。が、別の選択を行ったIFの世界が物語として描写されることは、同時に、「選んだ選択肢の先」と「選ばれなかった選択肢の先」が比較されることを意味する。
恋愛シミュレーションゲームでは、各キャラクターに個別ルートとエンディングが割り当てられており、多くの場合、そのキャラクターのもつ問題とその解決という筋立てになっている。あるキャラクターを選ぶと、選ばれなかったキャラクターの問題は(表面化されないことも多いが)未解決のままである。プレイヤーが選択肢を能動的に選ぶことによって、あるキャラクターの問題は解決され、別のあるキャラクターの問題は解決されない。ここで、プレイヤーは選択によって救済と放置の能動的な決定を司っていることになる。*1*2
おそらくこういった気持ち悪さ・後味の悪さが、KID「Ever17」(2002)をはじめとする後の「グランドフィナーレ(すべての問題が解決される、最終的なルート)」の発明・流行へと繋がっていくのだが、本稿では、「選択肢」によってさまざまな分岐を生じることとなった物語世界の、最近のもうひとつの潮流、アンチ・選択肢の試みを紹介しよう。
アンチ・選択肢の誕生
テキストが流れ、途中で挿入される選択肢によって物語が分岐する━━この物語構造が一般的になって陳腐化するのにしたがって、ゲームにおける「選択肢」という装置自体を対象化し、その機能を解体しようとする作品が現れはじめた。
ここからは、選択肢がどのような機能をもっていて、その機能がいかにして解体されてきたかを実例をあげて解説する。
各章で、章題に挙げた作品の核心部分に触れるので、ネタバレが嫌な人は各自自衛すること。それぞれネタバレしてなお面白い作品であることは保証するが、鑑賞の姿勢は変化するだろうし……
①選択肢の特権性:DDLC、君と彼女と彼女の恋
そもそも、「プレイヤーが選択肢を選ぶことができる」というのはどういうことだろうか?
②選択肢の可能性:2236 A.D.
次に解体されるのは「選択肢によって、よい未来に到達できる」という、選択肢の可能性である。
③選択肢の実在性:デイグラシアの羅針盤
いや、そもそも、選択肢なんてものは本当にあるのだろうか?
むすび
ノベルゲームの界隈でいまこうした実験的なことを試みているクリエイターはごく限られているのだが、商業ゲームでそれをやってる大体みんなが集ったおもしろインタビュー記事があるので一読をオススメする。
今回は、「分岐する物語」という定型が広がって、その分岐の機能を批判的にみたり対象化したりした「アンチ・選択肢」とも呼ぶべき切り口・演出がいろいろ試みられていることを書いた。既存の定型の特徴をあれこれ解体してみて、何か新しい「アンチ」のアプローチを探すとオモロいものが見つかるかもしれない。
落穂ひろい
- 選択肢の機能へのタダ乗り
RPGや一部のノベルゲームには、選択によって物語がほとんど(あるいは全く)変化しない選択肢が登場する。これは、選択行動によってプレイヤーに主体的に物語に介入している感覚を錯覚させながら、内部的には選択が行われていない、巧妙なトリックと言えそう。
- 群像劇と選択肢
いろいろな登場人物の視点をザッピングしたり、三人称的に物語を追う群像劇の場合(「街」「428」など)、選択肢は主体的な選択というより、話を目まぐるしく動かす相互作用の起点として扱われているように思う(このときAさんが「はい」「いいえ」のどちらを選ぶかによってBさんの行動がどう変わって、Cさんにはどう波及するだろう?といった感じ)。神の視点から「ここでの選択が変わったらどうなるだろう?」で変化を楽しむような機能もありそう(「prismaticallization」など)
- オタクあるある
『ゲーム的リアリズムの誕生』には、「メタ構造をもつゲーム、オタクが批評しがち」というオタクあるあるが書いてある。たすけて〜
*1:KANON問題と呼ばれる、非常に込み入った議論が存在する。
*2:主人公である主観キャラクターの層では問題がないものの、プレイヤーの層で取捨選択のジレンマ・選択の責任が生じる構造になっている。このあたりの批評は東浩紀『動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』あたりに詳しい。
*3:この主題はカタリストが「デイグラシアの羅針盤」を「Ever17」のオマージュとして作っている、と発言していることともよく関連付いていることのように思う