公共化するツイート:小さなインターネットと大きなインターネット

いつものように漫然とインターネットをしていると(漫然とインターネットをするのはよくないことである)興味深い投稿を見かけた。詳細は忘れたが物議を醸すツイートがバズっていて、発信源の投稿を開いてみるとツイートの投稿者が(比較的初期に)リツイートした人へ

フォロー外から勝手にリツイートすんなや

とリプライしていたのである。

「この人には、フォロー外からリツイートするのはマナー違反」という規範があるんだ! という驚きがあった。

スケールと公共化

バズったツイートを見て思うのは、ある程度以上の衆目を集めた投稿は公共化する、ということだ。バズったツイートに寄せられた大量のリプライを見ると、これらは投稿者へ向けたメッセージではなく、投稿に対して各々が思ったことを書くスレッドになっていることがわかる。バズがある閾値を超えると、ツイートのリプライ欄はYahoo!ニュースのコメント欄のように、投稿を見た感想であったり、批判であったり、似たような体験談であったりといった(投稿者ではなく)同じようにコメントを見ている他者へ向けた発信の場になるのである。

逆にいうと、バズっていないツイートが共有されるのはある程度私的な空間である。オーディエンス(≒フォロワー)の反応はある程度予測可能であり、コミュニティ内で倫理観やミームが共有されていて、内輪ネタがウケる下地が存在する。しかし、この小さなインターネットに向けて発信されていた投稿はバズによって突然、シームレスかつ徹底的に大きなインターネットに接続され、公共化する。

ネットワーク全体がある種の倫理観やミームを共有している場合(狭いコミュニティや、閉じた趣味のコミュニティなど)はいい。巨大なSNSは残念ながらそうではなく、拡散された先には膨大な数の予測不能なオーディエンスが存在し、内輪ではさほど問題でなかった行為が大いに非倫理的であるように解釈され、炎上する。

公共化するツイート

※追記(2021/02/16)


「ある程度以上拡散されるとネットの言説は公共性をもつ」ことに関して、中国で次のような法的判断があるようだ。

网络谣言转发超500次 可构成诽谤罪

中国語はサッパリなので自動翻訳と雰囲気からだいたいのところを類推すると、どうもこれは中国の最高人民法院及び最高検察院から発表された法律判断で、

  • 誹謗中傷のメッセージの閲覧回数が5000回、あるいは500转发(Weiboにおけるリツイート)を超えた場合、重大性があるものとして名誉毀損罪の構成要件とすることができる

ということらしい。政府がことの重大性をしきい値によって厳密に数字で定義し、市民は「500RTを超えそうなら投稿を消す」ことで自衛する、というのはなかなかに面白い状況である。

スモール・ワールド効果

複雑ネットワークの理論を勉強すると一番最初に出てくる有名な小話に、六次の隔たりがある。これは、どんなに離れていそうな人2人を選んでも、知り合いの知り合いの……を辿っていくと、6人で繋ぐことができるという仮説である。知り合いの知り合いの……を6回やると誰でもだいたい全人類と繋がる、というのは衝撃的だが、人的ネットワークやSNSのデータによってこれはある程度実際に検証されている。
Wikipediaにはこうある:

2008年、日本国内最大のSNSコミュニティmixiについて、同社のエンジニアによってスモールワールド性の検証記事が書かれ、6人目で全体の95%以上の人数に到達できることが明らかにされた。2011年には、Facebookミラノ大学による共同調査の結果、世界中のFacebookユーザーのうち任意の2人を隔てる人の数は平均4.74人であることが発表された。

また、ダンバー数と呼ばれる人類学の用語があるが、これは人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限、で、要は交流をとる知り合いの典型的な数(の上限)、と考えてよさそうな量である。100〜300とも言われるこの数は、われわれがふだん「私的なインターネット」で触れあう人々とだいたい一致するのではないだろうか。

階層化・クラスター化され、別クラスターとのやりとりの少ない小部屋の中で認知の上限いっぱいいっぱいを相手にSNSを運用しているときに、ひょんなきっかけでバズって未知の大部屋に放り込まれてしまう――なかなか絶望的な状況ではないか?

インスタント・SNS

原理的には、インターネットに何かを投稿するというのは、全世界に向けてその情報を公開することである。ただし、実効的には、決してそうではない。投稿を見ているのは平常時はその投稿者をフォローしている100人とか1000人とかであって、全世界がそれを見ているわけではない。

フォロー外から勝手にリツイートすんなや

という反応は愚かだろうか? 実効的なオーディエンスを考えると、私はこれがある意味で真っ当な反応だと思う。その投稿者をフォローしている100人とか1000人、そのフォロワーがリツイートして拡散する二次の隔たりまでが彼の想定していたSNSのオーディエンスであって、その外の人はお呼びではない/想像の外の世界の出来事である。

普段のSNS利用で「二次の隔たりより外の人」が介入してくることはないわけで、いくら投稿の閲覧が原理的にはーオープンであろうが、体験としてのインターネットはごく私的でクローズドなものである。この原理的にはオープンだが、実効的にはクローズドな構図の齟齬が「フォロー外から勝手にリツイートすんなや」発言の本質であり、この発言はインターネット体験を自分の想像下の私的な空間にとどめおくための至極まっとうな防衛なのである。

また、次のような話を聞くこともしばしばある。

  • インターネットではコンテンツの辛口の批評はしにくい(関係者がエゴサーチして傷ついたり、争いが発生するため)ので、クローズドな場がほしい(あるいは、やっている)

  • 思いつきを発言しにくい

「インターネットは公共の場だから放言せずしっかり考えて発言しろ」なんてのは耳タコかつある意味では当然だが、実効的にはクローズドな空間なのに、そのクローズドな場に応じたレベルの思いつきまで言いにくくなっているフラストレーションがある、というのがここの問題である。

このあたりの齟齬の息苦しさの受け皿が、一日で消えるしフォロワーしか見えないツイッターのフリート、インスタグラムのストーリーズであったり、音声通話のTwitterスペース、メモ禁止を規約に掲げるクラブハウス、これらはインスタントであることによって実効的にオーディエンスを想定圏内に制限する自己表現・言論の空間だったのかな~と、最近ボンヤリと考えている。

「インターネットは公共の空間なので、注意して投稿しなければならない」は、ぐうの音もでない正論だ。が、同時に、現代のSNSは実効上は「バズらないかぎり、私的な閉じた空間である」ことも常に意識されるべきである(多くの場合、あなたが目くじらを立てる必要はない)。