玉虫色の視点:「非」同一な世界を共有すること

「1パーセントの仮想」

先日、ヨツミフレーム@y23586氏が開催したVRChat内のメディアアート展覧会「1%の仮想」に(VRで)行った。

展覧会自体は、VRけん玉や、空中に書けるペン、折り手順をすっとばして展開図から完成品に直接シームレスに変形する折り紙、VR界隈の現状を表した3Dグラフ、立つと幽霊が見えるようになるスポット、IPアドレスから割り出した参加者の「実際の」の距離関係を表したグラフ、などなど、VRの虚構性をあらわしたものや、VRでしかできない挑戦的なもの、VR技術の展望が見えるような展示などがたくさんあって、かなり楽しめるものだった。VR界のマイルストーンのひとつと言っていい出来で、この個展を1人でやったというのは本当にびっくりする。

こちらはヨツミフレーム氏のインタビュー。

会場に入ってすぐに「1%の仮想」の題字があるのだが、展示を一周して戻ってくるとそれが「1%の本質」に変わっているという心憎い演出もあって、これには思わず声がでてしまった。

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補記:"virtual" の訳として「仮想」をあてたのは誤訳ではないか、という話がある(形は別だがある種の「本質」を保っているもの、というニュアンスが強いため)。

再度開催の予定があること、またゆくゆくは英語もつけてPublicにするとのことなので、VR環境がない人もデスクトップモードでいいので行くことをおすすめする。

その展示の中に、「玉虫色の視点」という作品があった。

玉虫色の視点

「玉虫色の視点」は、宙に浮かんでいる玉虫色の物体である。

前から見ると「縦」、横から見ると「横」、上から見ると「高」の漢字が見えるようになっている。オブジェクトはそれぞれの方向から投光され、「縦・横・高」の三文字がそれぞれの方向にシルエットとして浮かび上がっている。
側にあるパネルには「視点によって見えるものが違う」うんたら、みたいなことを書いている。

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GEBの表紙の3Dアンビグラムのアレ

GEBの表紙で見たことある3Dアンビグラムのアレじゃんと思っていたら、この作品のほうが一段も二段も上手で、とんでもない仕掛けが仕込まれていた。

作品について周囲の人とおしゃべりしてみると、

Aさん「あ~角度によって違うものが見えるやつですね」
Bさん「なるほど~」

あたりまでは話が噛み合うのだが、見えているものの話になると

Aさん「縦・横・高さ、になってるんですね」
Bさん「緑色のイモムシみたいなのが見えますね」
Cさん「○△□が角度で見え方が変わるんですね」

と、とたんに意見がバラバラになるのである。

この「玉虫色の視点」という作品、見る方向だけでなく、人によってそこにあるもの自体が違うのだ。

どうやら縦・横・高のパターン、イモムシ・サナギ・チョウのパターン、○・△・□の3パターンがあるっぽい。

VRヘッドセットをつけるとVR内のオブジェクトは「あたかもそこに存在しているかのように」見える。その「確かに存在している(と思っている)もの」が人によっては全然違うものの可能性がある、のをはっきりと見せられて、一種の恐怖を感じた。

しかしよくよく考えてみると、VRChat内ではこうした「世界が個々人の間で同期されていない」事例がいくつかある。
今回は、VRChat内の「ユーザーによって見えている世界が違う」例を数点挙げて、この現象について少し考えてみたい。

実例①:Local ミラー

3D描画において、鏡というものはちょっと負荷が大きいようで、VRC内のワールドに鏡があると視界のフレームレートが下がる。40fps程度ならまだ見られるが、周りに人が多いときなど、場合によって20fpsを割ってしまって、そうなると世界がカクついて見えはじめる。

これを防ぐための工夫のひとつが Local Mirror と呼ばれるものだ。要は「鏡が見たい人にだけ鏡が見えればいいじゃん」という発想で、ワールドに設置されている「Local Mirror」のスイッチを入れると、目の前に自分にだけに見える鏡が出現する。鏡を見たい人/現在マシンパワー的に余力がある人は鏡を表示すればいいし、そうでない人はオフにすればよい。

このLocal Mirrorのシステムは、VRChatにある奇観を生んだ。壁に向かってつっ立っている謎の集団である。注意ぶかく探すと近くに鏡を制御するスイッチを見つけることができて、彼らが鏡を見ていたということがわかる。何もないと思った壁には、たいてい「私がまだオンにしていない鏡」があるのだ。

BGMについても同様で、「Local BGM」をオンにすると、オンにした人だけに音楽が聞こえる、という仕掛けはよく見るものだ。

この手のLocalなオブジェクトはVRChatのそこかしこに存在している。自分にとってそこにあるものが、他のだれかにとってもそこにあるとはかぎらない。

実例②:物理法則とアニメーション

VRChatは非VR(デスクトップモード)でも入ることができる。大きな違いは閲覧環境(ディスプレイで見る)や操作方法(キーボードで操作する)だが、それ以外にもいくつか内部処理にも違いがあるようだ。そのひとつが、「物理演算の更新ステップ幅」である。

VRモードでは90fps、デスクトップモードでは30fpsで値が更新されるらしい。ふつうステップ幅が違ったくらいで物理演算の結果が劇的にかわるはずはないのだが、どうやら「フレーム数」を基準に動いている要素があるせいでこのようなことが起こっているようだ。「ぼくから見たらゆっくり動いているように見えるんですけど、VRの人からは高速で動いているように見えるらしいですね」と言われたことがある。人によって物理法則が異なるということすらあり得るのである。

この効果によって「物体がゴールに到着した時間」といったものも当然ズレてくるわけで、たとえば「ボールがこの輪をくぐったら合図してください」という実験をすると、デスクトップユーザーとVRユーザーは別のタイミングで反応することになるはずだ。

アニメーションについては「自分」と「他人」で見え方が違うことがあるようだ。自分で見えている自分の動きと、他人から見えている自分の動きは異なるもので、しばしば「これちゃんと動いてます?」とまわりの人に聞くことになる。

実例③:ブロック・ミュート・Safety and Trust System

VRChatにも厄介なユーザーはいて、大声でわめいていたり、爆音で効果音を再生したり、描画負荷が高いエフェクトを再生して他のユーザーのクライアントを不調にさせたり、他人の視界をジャックして視界右側に常に赤座あかりの画像を表示してきたりと、そういうヤベーやつらには対策を講じる必要がある。

この対策として用いられるミュート(その人が発する音を一切聞こえなくする)やブロック(その人の存在そのものを消す)は、個人ごとの世界の見え方を大きく変える実例のひとつだろう。

中でもブロックについては、ブロックしたユーザーのアバターも声もネームタグもすべてが消滅して、「同じワールドにいる人」のリストにかろうじて名前を残すのみになってしまう。

ブロックされるのはたいてい相当な厄介者なのであまり考えにくいが、仮に会話をしている集団の中に自分が昔ブロックした人がまじっていれば、「何か話が噛み合わないな、と思ってたら自分にだけ見えない人がいた」という状況が生じうるわけである。

さらに、9/21に発表されたVRChatのオープンβでは、新たに「Safety and Trust System」なるものが導入された。これは「ユーザーを信用度ランクに応じてフィルタリングする」ものだ。

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6つの設定項目をOn/Offできる

「信頼度の低いやつのシェーダー(3Dを描画するためのプログラム)はデフォルトの軽いやつにしとこう」とか「フレンドのだけはパーティクル(銃弾飛ばしたり雪降らしたりするやつ)見えるようにしとこう」とかが設定できるようになるのだ。

知り合いになると(文字通り)ディテールが見えてくるというのは、ちょっとおもしろい。

世界を共有すること

まず共通した同一の世界があって、それを各々が認識している、というのが現実における一般的な考えだろう(哲学の言葉でいう「物自体」が考えとして近いように思う)。

この描像の中で、「認識が変質することで、世界の見方がかわってしまう」話はしばしば聞くもので、『火の鳥 復活編』などがいい例だろう(事故の後遺症で人間がロボットに、ロボットが人間に見えるようになってしまう話)。幻覚症状などもふつうはこの描像で説明される。

ただ、これまでに挙げた「ローカルにあわせて変化する世界」は、この枠の外にあるものだ。世界のほうが個人にあわせて形を変えてしまう状況というのは、今のところ基底現実では起こってこなかったことである。「共通した世界というものが存在して、それを各々が認識する」という考えは更新されなければならない。

共通点

とはいえ、私たちがVRで「同じ空間にいる」と錯覚できる程度には、個人間に「共通するもの」が存在する。

内部処理に目を向ければ、VRChatサーバーにある「世界のデータ」は共通のもののはずである。それを各々のPCで再生する際に、自動的・あるいはユーザーの能動的な操作によって世界にフィルタがかけられ、「個人化」が起こるのである。

これまでは認識によって「個人化」を行なってきたことを考えると、その前の段階で世界を解釈してしまうソフトウェアは、ある種の「認識の外部化」なのだ、と言えるだろう。

ここで、「認識がどのように外部化されているか」ということにいくらでも無自覚になれるのが、この手のフィルタのおもしろい/こわい側面である。 これからどんなフィルタが出てくるのか、またそれらのフィルタを個々人はどの程度自覚的/無自覚的に使うようになるのかなど、面白いものが見えてきそうだ。

メモ

  • 「他人には見えないが自分には見える」(あるいは逆)物体、ボードゲームと相性が良さそう。
  • 同音異義語の「玉虫色の視点」があれば自動的にアンジャッシュの状況が発生しそう。
  • 「人に勝手にフィルタをかける」ことによる情報操作は可能そう。
  • 世界が「玉虫色」すぎると「同じ空間にいる」幻想が破壊されるかもしれない危険性はある。幻想を維持できるギリギリまで玉虫色にした世界というのも面白そう。
  • あるいは、もしかすると基底現実における「共通した世界」と思っているものもそこまでしっかりしたものではなくて、気づかない間に個人にあわせて変質しているのかも、と妄想することもできる。

人間乱数についての覚え書き

人間乱数

人間に「乱数列を書いてください」と頼むとけっこう変な偏りをもった数列を書いちゃうらしくて、人間乱数とか human random number generation とか呼ばれているようである。これがなかなかにおもしろい。
今回は、人間乱数の性質や成り立ち、その利用などについて、ちょこちょこ調べたことをいろいろ紹介してみようと思う。

ブツ切り傾向

いちばんわかりやすい例が「コイントスを100回やったときにできる裏表の列を想像して書いてみてください」というもの。

人間が書いた乱数列は、コインの裏表それぞれの頻度こそだいたい50:50になるものの、「裏が出た次の回に表が出る確率」および「表が出た次の回に裏が出る確率」、つまり「コインの裏表が入れ替わる頻度」が期待値(0.5)に対して異様に高くなるらしい。

ギャンブルに「流れ」はあるか、物語を作る生き物、煮つめられた人生 - 吹風日記

これはギャンブラーの誤謬と呼ばれる現象があらわれたものと見ることができる。ギャンブラーの誤謬とは「表が連続しているから、そろそろ裏が出るはず」というように、実際には独立な事象に対して「確率の揺り戻し」があると考えてしまうバイアスのことだ。このバイアスによって、裏と表の連続が必要以上にぶつ切りにされてしまうわけである。

引用したブログでは、人間は「何回も連続して何かがおこること」の発生確率を実際より少なく見積もるので、単なる乱数列のゲーム結果に対して「流れ」や「ツキ」を見いだしてしまうのではないかと結論している。これは「ホットハンド理論」と呼ばれるものと強く関連したもので、非常に重要な指摘であるように思う。

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手前でも適当にコードを書いて作ってみたが、たしかに上の「正しいコイントス(表裏の入れ替わり確率50%)」よりも下の「入れ替わり過剰なコイントス(表裏の入れ替わり確率65%)」のほうが自然なように感じた。

「期待される頻度」に寄る傾向

人間が書いた乱数コイントスの裏表の頻度はだいたい50:50になる、と書いたが、実はここでも、人間乱数と正しい乱数の齟齬がある。コイントスを100回くらいやると、40%くらいの確率で裏表に10個以上の差がつく(45:55/55:45以上に偏る)のだが、人間乱数ではあまりこういったことは起こらず、50:50に近い出現頻度をとりがちである、という性質があるのだ。

この現象は、コイントスよりもちょっと複雑なタスク、「サイコロの目(1~6)を適当に並べて書いてください」を人間にお願いしたとき顕著に見えるようだ。

http://blog.livedoor.jp/lunarmodule7/archives/4523745.html

引用したページでの

F1: 全体で出た目の回数のχ2値(5.0)

がこれにあたるもので、だいたい「頻度の期待値(1/6)への近さ」を表している。これが理論値に対して人間乱数が半分ほどの値を取っていることからも、人間乱数の均等すぎるという性質が見えてくる。

これは小数の法則と呼ばれるバイアスに関連した現象のようである。「小数の法則」は、数学の定理である「大数の法則」をもじったもので、大数の法則が「無限回試行を繰り返せば頻度は期待値に一致する」(意訳)のに対して、「試行回数が少ない場合でも、頻度が期待値に近くないと不自然に感じるバイアス」のことだそうだ。

人間の思う乱数と実際の乱数がズレるそもそもの理由

ここまでで「連続するイベントを切りがち」「出現頻度を過剰に期待値に寄せがち」という二つの人間乱数の特徴を紹介した。じゃあ、なんで人間はそんなに乱数作るの苦手なんだよ、と考えると、どうも(進化の過程で遭遇してきた)現実世界のイベントはたいてい独立事象じゃないからというのが説としてあるようだ。以下の論文を参照した。

Frontiers | The Gambler’s Fallacy: A Basic Inhibitory Process? | Psychology

該当箇所を引用しよう。

The answer may stem from the probabilities associated with particular events and outcomes in both the real world and the casino. In a casino, outcomes are designed to be random whereas in the real world this is usually not the case. For example, when we developed the evolutionary account of IOR using the apple-picking scenario, we postulated that apple pickers inhibit an area of visual space, or perhaps an action associated with a just-picked-apple, in order to turn their attention to new locations and new apples. In fact, the probability of a new apple being in the same location as a just-picked-apple is zero (at least until next year). That is, the probability of event N + 1 is contingent on event N.

(中略)

The cognitive and neural systems that support performance in the real world cannot be expected to contribute to optimal outcomes in an artificial environment where the probabilities of one event are not contingent on previous events (i.e., the casino where outcomes are random).

例として「樹からリンゴを取ったら同じ場所からはリンゴが取れなくなる(N番目の状態とN+1番目の状態が相関している)」というのが挙げられている。
この例の妥当性は措くとして、まあ同じ独立事象が何回も繰り返されるようなことが自然界であるかと言われれば、たしかにあまりなさそうである。リンゴに限らずリソースは「取ると減る」ものなので、ブツ切り傾向と対応している……と言われればそうかもしれない。

最後の部分は「現実世界におけるパフォーマンスを支えるための認知/神経システムが、イベントが独立に発生する人工の環境(たとえば、カジノ)において最適な成果を出すとは期待できない」といったところ。
「イベント発生が独立でない世界(自然界)」で獲得したメソッドを「イベント発生が独立な世界(ギャンブル)」に持ち込んでしまっているから齟齬が生じるのだとすれば、人間の脳はその成り立ちのレベルでギャンブルに向いてないっぽい。

「人間の(一見)不合理に見える性質は、実は進化の過程で何かに適応した結果獲得したものである」をテーマに一冊、一般向けの本が出ていて、"The Rational Animal: How Evolution Made Us Smarter Than We Think" というのがそれ。邦訳が『きみの脳はなぜ「愚かな選択」をしてしまうのか 意思決定の進化論』というタイトルで出ていてパラパラと読んでみたところ、 実験でサルにも損失回避の性質があるなどのちょっとおもしろそうなトピックがのっていた。

人間のもつバイアスと成長

ではこれらの乱数へのバイアスを人間が「生まれたときから持ってる」のかそれとも「成長するうちに獲得する」のかというと、これは一口には言えないようだ。

人間乱数とは少し話題が逸れるが、確率に関するいろいろな問題をGrade 5, 7, 9, 11の学生(小5、中1、中3、高2にだいたい対応)に回答させた研究があって、成長にしたがって減少するバイアスと、成長にしたがって増加するバイアスがあるようだ。

The Evolution with Age of Probabilistic, Intuitively Based Misconceptions on JSTOR

成長して増大するバイアスの中で特に劇的なのが、

Q コインを3枚投げてうち2枚以上が表である確率は、コインを300枚投げてうち200枚以上が表である確率と比べて
① 小さい
②同じ
③大きい

という問題。
正解は「③大きい」なのだが、成長するにしたがって②が増え、③が減るというバイアスの強化がおこっている。子どもの頃は間違えなかった問題を成長するにつれ間違えるようになっていくというのはとても奇妙な印象を受ける。

もうひとつが「Time axis fallacy」と呼ばれるもの(あるいは同型の問題であるモンティホール・ジレンマのほうが通りがいいかもしれない)で、

AさんとBさんが、それぞれ白い石と黒い石が2つずつ入った箱をもらいました。

Q1 Aさんが箱から石をひとつ引くと、白い石でした。石を箱に戻さずに次の石を引いたとき、白い石が出る確率は、黒い石が出る確率よりも
① 小さい
②同じ
③大きい

Q2 Bさんは箱から石をひとつ引いて、色を見ずに脇に置きました。二つ目の石を引くと、白い石でした。一つ目の石が白い石だった確率は、黒い石だった確率よりも
① 小さい
②同じ
③大きい

という問題。

正解は「Q1. ①小さい、Q2. ①小さい」なのだが、成長するにしたがって、Q2のほうで②同じの回答が増えるというバイアスの強化がおこっている。

Q1. については言わずもがなだが、Q2. で「②同じ」と回答してしまうのは「後に引いた石の色が前に引いた石の色に影響を及ぼすはずがない」という考えにミスリードされるから、という説明がなされているようだ。(実際は二つ目の石の色が何だったかという「手がかり」が与えられることで、一つ目の石の色をより正確に予想できるようになる。)

こうした因果関係を過信(?)する傾向が年齢とともに高まって問題を間違えやすくなるのはおもしろい。

人間乱数と成長

人間乱数そのものについても8歳と10歳に0~9の乱数列を書かせてみた研究があるようだ。

An exploration of random generation among children

TPIって指標(相関が強ければ強いほど大きくなる)が8歳から10歳になると大きくなっていて、成長にしたがって「正しい乱数からのズレが拡大している」のがわかる。

「ある数字を書いた後に次にどの数字を書いたか」のグラフが以下のものだ。
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グラフは「前の数字との差」を示していて、5の次に6を書いたら1、5の次に0を書いたら-5、ということになる。最も大きな山が立つべき0の部分に、逆に大きな谷があるので「同じ数字の連続」が異様に避けられているのが読み取れる(どうせなら、iからjへの遷移確率の行列をそのまま描いてほしいが……)。
8歳の+1の部分に大きなピークがあるのも要注目で、数を習って間もない8歳児がついつい「4567……」のような連続して1ずつ増えるシークエンスを書いちゃっているということで、ほほえましい。

逆にバイアスにあわせる

上で紹介したブログで、ファイアーエムブレムの確率表示のかなり興味深い工夫が書かれている。

たとえば、ファイアーエムブレムシリーズの封印の剣蒼炎の軌跡新・暗黒竜と光の剣では、攻撃命中率が表示されるにも関わらず実際の命中確率は、表示が50%以上の時には表示よりも高く、表示が50%以下の時には表示よりも低くなるように調整されている。これにより、90%なのにやたら攻撃が外れるとかいうプレイヤーの不満を減じることができる。

これは「ブツ切り」とも「平均化」とも明らかに違ったもので、「90%と言われたとき、90%以上の確率を想像してしまう」ような認知バイアスがあるようだ。

そういえば、ポケットモンスターのゲームは表記通りの確率を用いているが、「ねむりごなは表記75%だけど絶対そんなに当たってない」「ハイドロポンプの80%はウソ」といった「表示されている確率と体感確率が違う」話がよく聞かれる。

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背後には「重要な局面での高命中技の失敗」「ダメ元でやった低命中技での逆転劇」などが印象的で記憶に残りやすい、といったバイアスもありそうではある。

実装した例は知らないが、たとえばゲームにおけるアイテムのドロップ率を「人間乱数にあわせた(自然な印象をうける)ものにする」ことは可能なはずだ。
1%の確率でドロップするアイテムがあるとしよう。直感的には「100回チャンスがあったら出そう」と思いがちだが、100回やって1%のものが出る確率は実は63%程度しかない(期待値は1になるが、これは2回以上ドロップした人によって値が押し上げられているため)。
はじめのほうのドロップ率を1%以下にして、以後は試行回数にしたがってドロップ率が上昇するように設計すると、(2回以上ドロップする確率を押し下げることで)期待値を保ったまま「100回チャンスがあったらだいたい出る」ようなアイテムドロップが実装できるはずである。

かつてソーシャルゲームの有料ガチャの確率操作が問題になっていたが、これは公平性の問題であって、確率カーブをいじいじすること自体が悪なわけではない。
競技むけのゲームでもない限り、コンシューマゲームの「人間向けにチューニングした「快適な」確率」はどんどん工夫をこらしてやっていいと思うし、そういった話をいろいろ聞いてみたい。

追記
記事を公開して、「ランダムエンカウントのゲームで、戦闘後、一定歩数までエンカウント率を0にするという工夫はこれに当たるのではないか」との指摘をいただいた。これを実装しているという話はけっこう聞くように思う。
敵の出現確率が定数なら「戦闘後すぐに次のバトルがはじまる」ことも当然あり得るのだが、これを人間が「不自然」と感じるのももっともかもしれない(なぜなら現実界での「敵の分布」は一様ではないので)。
ただ、単にすぐ次のバトルがはじまるのは煩わしいのでユーザーエクスペリエンスを損なう、という側面もあるだろうとは思う。

シンボルエンカウントのゲームでは敵は「ある広さのエリアごとに一匹」というふうに配置されることが多く、これが生き物の「縄張り」と対応していると見ると、ある意味「自然な配置」かもしれない。

メダルゲームと標本平均の収束

「人間が自然に感じるように」とも「利益を最大化するように」とも別の方向で確率の動的な操作を行ってきたゲームのジャンルがあって、メダルゲームである。
http://iroirogames.blog.jp/archives/8921473.html

メダルゲームの機械には、週とか日の単位であんまり成績にバラツキが出てほしくないという事情があるそうだ。
ここでいう成績というのはペイアウト(投入するメダルの割合に対する放出するメダルの割合)のことで、これが日によらず一定になってほしい、とのこと。ギャンブルと違って公平性を厳密に守る必要もないので、履歴に応じた確率操作を行ってパフォーマンスを安定させているのである。

ある時間単位で頻度が過度に期待値に近づくわけで、傾向としてはまさに「小数の法則」に対応する。

日単位で収束することを利用して、一日中記録をとって閉店間際に勝てるかどうか予測できる(あるいは、予測して勝った)という話を聞いたことがあるが、ここまでくると眉唾ではある。

バイアスが強化される可能性

ゲーム内で使う人間向け確率なり、メダルゲームの収束機なりによって「チューニングされた確率」に慣れちゃうと、逆にふつうの乱数へ持つ違和感が今以上に増大する可能性はありそうだ。ほどほどにしたほうがいいかも。

どうでもいい話

中にコンピュータと可動おもりをいれて確率のある程度の操作を可能にした、「人間乱数実装サイコロ」ができたらちょっとおもしろいかもしれない。

「対戦チンチロリン」というゲームがあって、プログラムにおけるサイコロの実装が非常にまずくて

「1,3,4,6」の出る確率がそれぞれ1/8、「2,5」の出る確率が2/8になっている

とのこと。
対戦チンチロリン - ゲームカタログ@Wiki ~名作からクソゲーまで~ - アットウィキ
このゲームの場合は残念ながらまごうことなきバグでクソゲーになっちゃったようだが、既存の「同様に確からしい確率」を前提にしていたゲームの中には、確率を変えることでガラリとゲーム性を変えるようなものがあるかもしれないと思う。

確率の話とは少し離れるが、私はゲームで「50回戦闘したな~」と思ったとき、カウントをみるとだいたい30回もいってない、という経験がよくある。常に過剰な見積もりをしてしまうこれにも、何か変なバイアスがかかっている気がする。

井戸とグーグルホームの話

堕落のすすめ

 水道が普及するまえ、井戸を使っていた人々は、毎日家から離れた井戸まで水を汲みにいっていたわけである。たぶん彼らはそれを「めんどくさい」と感じていたとしても「不便」とは感じていなかったんじゃないか、と私は思っていて、生活に絶対必要な動作に不便もクソもないからである。
 ただし、水道が普及したとたんに「水道がないのは不便」になるわけだ。

 私は半年ほど前からGoogleスマートスピーカーグーグルホームを使っていている。最近よく「グーグルホームがないのは不便」と感じるようになってきた。

 井戸が水道への転換は、たくさんの人々を日々の苦役から解放した偉大な進歩だったことと思う。水道の普及は、無駄な時間、無駄な労力を軽減したのである。
 グーグルホームは違う。日常に実は存在していた、しょーもないささいなコストが軽減されるだけである。しかし、これらのコストはひとたび軽減された後は、水道に慣れると「井戸は不便」と思うようになるのと同じく(?)、しょーもないささいなもののくせに、日常生活でその存在/非在を主張するようになってしまう。

 これから話すのは、スマートスピーカーによる堕落のすすめである。
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クソデカいマカロン

失ってはじめて気づいた、○○がコストだったこと

 グーグルホームを使うようになって気づいた、日常生活にひそむ「実はコストだったこと」を、改善されてよかったな〜順で挙げてみる。

  • 照明や家電をリモコン/スイッチで操作すること
    だいたいリモコンやスイッチを触っているときって、「リモコンやスイッチで操作する」以外のことはなにもしていない。あたりまえじゃんって思うかもしれないけど、これってそこまであたりまえではなくて、「そろそろ眠くなってきたなあ」と思ったときに布団の中でスマホいじりながら照明を落としてエアコンを切ることができる。「ながら操作」ができるのはスマートスピーカーの重要ポイントのひとつ。

  • 料理中にタイマーをしかけること
    包丁で何かを切って鍋に投入してタイマーをセット……とか、調理しているときというのはだいたい手がよごれていて、いったんタオルで拭いてからタイマーの操作をするものである。「オッケーグーグル、3分タイマー」と言うだけだと、手を拭かなくていい。

  • 目覚まし時計をセットすること
    目覚まし時計の時間のセットってめんどくさくて、「分」とか「時」とか書いたボタンを大量に押す必要があったりする。特に昼寝したいときにいつもの朝向けの設定から変えるのは億劫である。
    グーグルホームなら、「オッケーグーグル、七時半に起こして」って言ったら一発である。
    あと、目覚ましをしかけてたのに起きたら時間過ぎてて目覚ましもなぜかオフになってる(寝ぼけて切って二度寝して忘れてる)やつが、グーグルホームのアラームにしてからはなくなった。こいつを止めるにはスイッチは存在せず「オッケーグーグル、止めて」などと発声する必要があるのだが、意外とこの発声が覚醒に役立つらしい。
    ちなみにその前は目覚まし時計を高いところに置くなどの工夫をしていた(この場合、立たないと止められないため)。

  • 朝おきて時計を確認するために目をあけること
    時計を見るのって目をあけないといけないんですよ。知ってました? 起きてすぐって目を開けるのつらいけど、でも今何時か知りたいから時計を見たい。ジレンマですね。配置によっては体の向きも変えないといけない。メガネをかけなきゃいけない人だっているでしょう。
    「オッケーグーグル、今何時?」だけで目をつむったまま時間がわかる。そう、グーグルホームならね。

むすび

 これを読んだ人もまだそんなのは別にコストじゃないじゃんと思っているかもしれないけど、実際使ってみて「これ、やらなくてよかったんだ!」と気づいたらもどるのが億劫になる。
 世の人が気づいていない「不便」を見つけて解消する発明って大事だなあ、なんて殊勝なことを考える。ここに挙げたのはしょうもないものばかりだし、よく記事で紹介されてるものにも生活を一変させるようなのは何一つないけれど、いくらしょうもないコストでもそれが減るのは人生を豊かにする……かもしれない。
 あと、うちの照明やエアコンはスマート家電なんて上等なものではないので、Google Home からの出力を IFTTT(いろんなサービスを中継するネットサービス)で受けて、ラズベリーパイ(ちっこいパソコン)とIRmagician(パソコン用の赤外線リモコンキット)を組み合わせたのに送り、そこから操作している。
 持っていると「これ実は音声で操作できるようにしたら楽なんじゃないの」とアイデアがわいてきて、自分でスクリプトが組めるなら、精度のいい音声入力ガジェットとしていろいろ遊べるいいオモチャだと思う。だらけるためには、多少のめんどくささは我慢。