玉虫色の視点:「非」同一な世界を共有すること

「1パーセントの仮想」

先日、ヨツミフレーム@y23586氏が開催したVRChat内のメディアアート展覧会「1%の仮想」に(VRで)行った。

展覧会自体は、VRけん玉や、空中に書けるペン、折り手順をすっとばして展開図から完成品に直接シームレスに変形する折り紙、VR界隈の現状を表した3Dグラフ、立つと幽霊が見えるようになるスポット、IPアドレスから割り出した参加者の「実際の」の距離関係を表したグラフ、などなど、VRの虚構性をあらわしたものや、VRでしかできない挑戦的なもの、VR技術の展望が見えるような展示などがたくさんあって、かなり楽しめるものだった。VR界のマイルストーンのひとつと言っていい出来で、この個展を1人でやったというのは本当にびっくりする。

こちらはヨツミフレーム氏のインタビュー。

会場に入ってすぐに「1%の仮想」の題字があるのだが、展示を一周して戻ってくるとそれが「1%の本質」に変わっているという心憎い演出もあって、これには思わず声がでてしまった。

f:id:xcloche:20180930215904p:plain
補記:"virtual" の訳として「仮想」をあてたのは誤訳ではないか、という話がある(形は別だがある種の「本質」を保っているもの、というニュアンスが強いため)。

再度開催の予定があること、またゆくゆくは英語もつけてPublicにするとのことなので、VR環境がない人もデスクトップモードでいいので行くことをおすすめする。

その展示の中に、「玉虫色の視点」という作品があった。

玉虫色の視点

「玉虫色の視点」は、宙に浮かんでいる玉虫色の物体である。

前から見ると「縦」、横から見ると「横」、上から見ると「高」の漢字が見えるようになっている。オブジェクトはそれぞれの方向から投光され、「縦・横・高」の三文字がそれぞれの方向にシルエットとして浮かび上がっている。
側にあるパネルには「視点によって見えるものが違う」うんたら、みたいなことを書いている。

www.amazon.co.jp GEBの表紙の3Dアンビグラムのアレ

GEBの表紙で見たことある3Dアンビグラムのアレじゃんと思っていたら、この作品のほうが一段も二段も上手で、とんでもない仕掛けが仕込まれていた。

作品について周囲の人とおしゃべりしてみると、

Aさん「あ~角度によって違うものが見えるやつですね」
Bさん「なるほど~」

あたりまでは話が噛み合うのだが、見えているものの話になると

Aさん「縦・横・高さ、になってるんですね」
Bさん「緑色のイモムシみたいなのが見えますね」
Cさん「○△□が角度で見え方が変わるんですね」

と、とたんに意見がバラバラになるのである。

この「玉虫色の視点」という作品、見る方向だけでなく、人によってそこにあるもの自体が違うのだ。

どうやら縦・横・高のパターン、イモムシ・サナギ・チョウのパターン、○・△・□の3パターンがあるっぽい。

VRヘッドセットをつけるとVR内のオブジェクトは「あたかもそこに存在しているかのように」見える。その「確かに存在している(と思っている)もの」が人によっては全然違うものの可能性がある、のをはっきりと見せられて、一種の恐怖を感じた。

しかしよくよく考えてみると、VRChat内ではこうした「世界が個々人の間で同期されていない」事例がいくつかある。
今回は、VRChat内の「ユーザーによって見えている世界が違う」例を数点挙げて、この現象について少し考えてみたい。

実例①:Local ミラー

3D描画において、鏡というものはちょっと負荷が大きいようで、VRC内のワールドに鏡があると視界のフレームレートが下がる。40fps程度ならまだ見られるが、周りに人が多いときなど、場合によって20fpsを割ってしまって、そうなると世界がカクついて見えはじめる。

これを防ぐための工夫のひとつが Local Mirror と呼ばれるものだ。要は「鏡が見たい人にだけ鏡が見えればいいじゃん」という発想で、ワールドに設置されている「Local Mirror」のスイッチを入れると、目の前に自分にだけに見える鏡が出現する。鏡を見たい人/現在マシンパワー的に余力がある人は鏡を表示すればいいし、そうでない人はオフにすればよい。

このLocal Mirrorのシステムは、VRChatにある奇観を生んだ。壁に向かってつっ立っている謎の集団である。注意ぶかく探すと近くに鏡を制御するスイッチを見つけることができて、彼らが鏡を見ていたということがわかる。何もないと思った壁には、たいてい「私がまだオンにしていない鏡」があるのだ。

BGMについても同様で、「Local BGM」をオンにすると、オンにした人だけに音楽が聞こえる、という仕掛けはよく見るものだ。

この手のLocalなオブジェクトはVRChatのそこかしこに存在している。自分にとってそこにあるものが、他のだれかにとってもそこにあるとはかぎらない。

実例②:物理法則とアニメーション

VRChatは非VR(デスクトップモード)でも入ることができる。大きな違いは閲覧環境(ディスプレイで見る)や操作方法(キーボードで操作する)だが、それ以外にもいくつか内部処理にも違いがあるようだ。そのひとつが、「物理演算の更新ステップ幅」である。

VRモードでは90fps、デスクトップモードでは30fpsで値が更新されるらしい。ふつうステップ幅が違ったくらいで物理演算の結果が劇的にかわるはずはないのだが、どうやら「フレーム数」を基準に動いている要素があるせいでこのようなことが起こっているようだ。「ぼくから見たらゆっくり動いているように見えるんですけど、VRの人からは高速で動いているように見えるらしいですね」と言われたことがある。人によって物理法則が異なるということすらあり得るのである。

この効果によって「物体がゴールに到着した時間」といったものも当然ズレてくるわけで、たとえば「ボールがこの輪をくぐったら合図してください」という実験をすると、デスクトップユーザーとVRユーザーは別のタイミングで反応することになるはずだ。

アニメーションについては「自分」と「他人」で見え方が違うことがあるようだ。自分で見えている自分の動きと、他人から見えている自分の動きは異なるもので、しばしば「これちゃんと動いてます?」とまわりの人に聞くことになる。

実例③:ブロック・ミュート・Safety and Trust System

VRChatにも厄介なユーザーはいて、大声でわめいていたり、爆音で効果音を再生したり、描画負荷が高いエフェクトを再生して他のユーザーのクライアントを不調にさせたり、他人の視界をジャックして視界右側に常に赤座あかりの画像を表示してきたりと、そういうヤベーやつらには対策を講じる必要がある。

この対策として用いられるミュート(その人が発する音を一切聞こえなくする)やブロック(その人の存在そのものを消す)は、個人ごとの世界の見え方を大きく変える実例のひとつだろう。

中でもブロックについては、ブロックしたユーザーのアバターも声もネームタグもすべてが消滅して、「同じワールドにいる人」のリストにかろうじて名前を残すのみになってしまう。

ブロックされるのはたいてい相当な厄介者なのであまり考えにくいが、仮に会話をしている集団の中に自分が昔ブロックした人がまじっていれば、「何か話が噛み合わないな、と思ってたら自分にだけ見えない人がいた」という状況が生じうるわけである。

さらに、9/21に発表されたVRChatのオープンβでは、新たに「Safety and Trust System」なるものが導入された。これは「ユーザーを信用度ランクに応じてフィルタリングする」ものだ。

f:id:xcloche:20180930220211p:plain
VRChat Safety and Trust System: Changes and Feedback より。6つの設定項目をOn/Offできる

「信頼度の低いやつのシェーダー(3Dを描画するためのプログラム)はデフォルトの軽いやつにしとこう」とか「フレンドのだけはパーティクル(銃弾飛ばしたり雪降らしたりするやつ)見えるようにしとこう」とかが設定できるようになるのだ。

知り合いになると(文字通り)ディテールが見えてくるというのは、ちょっとおもしろい。

世界を共有すること

まず共通した同一の世界があって、それを各々が認識している、というのが現実における一般的な考えだろう(哲学の言葉でいう「物自体」が考えとして近いように思う)。

この描像の中で、「認識が変質することで、世界の見方がかわってしまう」話はしばしば聞くもので、『火の鳥 復活編』などがいい例だろう(事故の後遺症で人間がロボットに、ロボットが人間に見えるようになってしまう話)。幻覚症状などもふつうはこの描像で説明される。

ただ、これまでに挙げた「ローカルにあわせて変化する世界」は、この枠の外にあるものだ。世界のほうが個人にあわせて形を変えてしまう状況というのは、今のところ基底現実では起こってこなかったことである。「共通した世界というものが存在して、それを各々が認識する」という考えは更新されなければならない。

共通点

とはいえ、私たちがVRで「同じ空間にいる」と錯覚できる程度には、個人間に「共通するもの」が存在する。

内部処理に目を向ければ、VRChatサーバーにある「世界のデータ」は共通のもののはずである。それを各々のPCで再生する際に、自動的・あるいはユーザーの能動的な操作によって世界にフィルタがかけられ、「個人化」が起こるのである。

これまでは認識によって「個人化」を行なってきたことを考えると、その前の段階で世界を解釈してしまうソフトウェアは、ある種の「認識の外部化」なのだ、と言えるだろう。

ここで、「認識がどのように外部化されているか」ということにいくらでも無自覚になれるのが、この手のフィルタのおもしろい/こわい側面である。 これからどんなフィルタが出てくるのか、またそれらのフィルタを個々人はどの程度自覚的/無自覚的に使うようになるのかなど、面白いものが見えてきそうだ。

メモ

  • 「他人には見えないが自分には見える」(あるいは逆)物体、ボードゲームと相性が良さそう。
  • 同音異義語の「玉虫色の視点」があれば自動的にアンジャッシュの状況が発生しそう。
  • 「人に勝手にフィルタをかける」ことによる情報操作は可能そう。
  • 世界が「玉虫色」すぎると「同じ空間にいる」幻想が破壊されるかもしれない危険性はある。幻想を維持できるギリギリまで玉虫色にした世界というのも面白そう。
  • あるいは、もしかすると基底現実における「共通した世界」と思っているものもそこまでしっかりしたものではなくて、気づかない間に個人にあわせて変質しているのかも、と妄想することもできる。

人間乱数についての覚え書き

人間乱数

人間に「乱数列を書いてください」と頼むとけっこう変な偏りをもった数列を書いちゃうらしくて、人間乱数とか human random number generation とか呼ばれているようである。これがなかなかにおもしろい。
今回は、人間乱数の性質や成り立ち、その利用などについて、ちょこちょこ調べたことをいろいろ紹介してみようと思う。

ブツ切り傾向

いちばんわかりやすい例が「コイントスを100回やったときにできる裏表の列を想像して書いてみてください」というもの。

人間が書いた乱数列は、コインの裏表それぞれの頻度こそだいたい50:50になるものの、「裏が出た次の回に表が出る確率」および「表が出た次の回に裏が出る確率」、つまり「コインの裏表が入れ替わる頻度」が期待値(0.5)に対して異様に高くなるらしい。

ギャンブルに「流れ」はあるか、物語を作る生き物、煮つめられた人生 - 吹風日記

これはギャンブラーの誤謬と呼ばれる現象があらわれたものと見ることができる。ギャンブラーの誤謬とは「表が連続しているから、そろそろ裏が出るはず」というように、実際には独立な事象に対して「確率の揺り戻し」があると考えてしまうバイアスのことだ。このバイアスによって、裏と表の連続が必要以上にぶつ切りにされてしまうわけである。

引用したブログでは、人間は「何回も連続して何かがおこること」の発生確率を実際より少なく見積もるので、単なる乱数列のゲーム結果に対して「流れ」や「ツキ」を見いだしてしまうのではないかと結論している。これは「ホットハンド理論」と呼ばれるものと強く関連したもので、非常に重要な指摘であるように思う。

f:id:xcloche:20180731204013p:plain

手前でも適当にコードを書いて作ってみたが、たしかに上の「正しいコイントス(表裏の入れ替わり確率50%)」よりも下の「入れ替わり過剰なコイントス(表裏の入れ替わり確率65%)」のほうが自然なように感じた。

「期待される頻度」に寄る傾向

人間が書いた乱数コイントスの裏表の頻度はだいたい50:50になる、と書いたが、実はここでも、人間乱数と正しい乱数の齟齬がある。コイントスを100回くらいやると、40%くらいの確率で裏表に10個以上の差がつく(45:55/55:45以上に偏る)のだが、人間乱数ではあまりこういったことは起こらず、50:50に近い出現頻度をとりがちである、という性質があるのだ。

この現象は、コイントスよりもちょっと複雑なタスク、「サイコロの目(1~6)を適当に並べて書いてください」を人間にお願いしたとき顕著に見えるようだ。

http://blog.livedoor.jp/lunarmodule7/archives/4523745.html

引用したページでの

F1: 全体で出た目の回数のχ2値(5.0)

がこれにあたるもので、だいたい「頻度の期待値(1/6)への近さ」を表している。これが理論値に対して人間乱数が半分ほどの値を取っていることからも、人間乱数均等すぎるという性質が見えてくる。

これは小数の法則と呼ばれるバイアスに関連した現象のようである。「小数の法則」は、数学の定理である「大数の法則」をもじったもので、大数の法則が「無限回試行を繰り返せば頻度は期待値に一致する」(意訳)のに対して、「試行回数が少ない場合でも、頻度が期待値に近くないと不自然に感じるバイアス」のことだそうだ。

人間の思う乱数と実際の乱数がズレるそもそもの理由

ここまでで「連続するイベントを切りがち」「出現頻度を過剰に期待値に寄せがち」という二つの人間乱数の特徴を紹介した。じゃあ、なんで人間はそんなに乱数作るの苦手なんだよ、と考えると、どうも(進化の過程で遭遇してきた)現実世界のイベントはたいてい独立事象じゃないからというのが説としてあるようだ。以下の論文を参照した。

Frontiers | The Gambler’s Fallacy: A Basic Inhibitory Process? | Psychology

該当箇所を引用しよう。

The answer may stem from the probabilities associated with particular events and outcomes in both the real world and the casino. In a casino, outcomes are designed to be random whereas in the real world this is usually not the case. For example, when we developed the evolutionary account of IOR using the apple-picking scenario, we postulated that apple pickers inhibit an area of visual space, or perhaps an action associated with a just-picked-apple, in order to turn their attention to new locations and new apples. In fact, the probability of a new apple being in the same location as a just-picked-apple is zero (at least until next year). That is, the probability of event N + 1 is contingent on event N.

(中略)

The cognitive and neural systems that support performance in the real world cannot be expected to contribute to optimal outcomes in an artificial environment where the probabilities of one event are not contingent on previous events (i.e., the casino where outcomes are random).

例として「樹からリンゴを取ったら同じ場所からはリンゴが取れなくなる(N番目の状態とN+1番目の状態が相関している)」というのが挙げられている。
この例の妥当性は措くとして、まあ同じ独立事象が何回も繰り返されるようなことが自然界であるかと言われれば、たしかにあまりなさそうである。リンゴに限らずリソースは「取ると減る」ものなので、ブツ切り傾向と対応している……と言われればそうかもしれない。

最後の部分は「現実世界におけるパフォーマンスを支えるための認知/神経システムが、イベントが独立に発生する人工の環境(たとえば、カジノ)において最適な成果を出すとは期待できない」といったところ。
「イベント発生が独立でない世界(自然界)」で獲得したメソッドを「イベント発生が独立な世界(ギャンブル)」に持ち込んでしまっているから齟齬が生じるのだとすれば、人間の脳はその成り立ちのレベルでギャンブルに向いてないっぽい。

「人間の(一見)不合理に見える性質は、実は進化の過程で何かに適応した結果獲得したものである」をテーマに一冊、一般向けの本が出ていて、"The Rational Animal: How Evolution Made Us Smarter Than We Think" というのがそれ。邦訳が『きみの脳はなぜ「愚かな選択」をしてしまうのか 意思決定の進化論』というタイトルで出ていてパラパラと読んでみたところ、 実験でサルにも損失回避の性質があるなどのちょっとおもしろそうなトピックがのっていた。

人間のもつバイアスと成長

ではこれらの乱数へのバイアスを人間が「生まれたときから持ってる」のかそれとも「成長するうちに獲得する」のかというと、これは一口には言えないようだ。

人間乱数とは少し話題が逸れるが、確率に関するいろいろな問題をGrade 5, 7, 9, 11の学生(小5、中1、中3、高2にだいたい対応)に回答させた研究があって、成長にしたがって減少するバイアスと、成長にしたがって増加するバイアスがあるようだ。

https://www.jstor.org/stable/pdf/749665.pdf

成長して増大するバイアスの中で特に劇的なのが、

Q コインを3枚投げてうち2枚以上が表である確率は、コインを300枚投げてうち200枚以上が表である確率と比べて
① 小さい
②同じ
③大きい

という問題。
正解は「③大きい」なのだが、成長するにしたがって②が増え、③が減るというバイアスの強化がおこっている。子どもの頃は間違えなかった問題を成長するにつれ間違えるようになっていくというのはとても奇妙な印象を受ける。

もうひとつが「Time axis fallacy」と呼ばれるもの(あるいは同型の問題であるモンティホール・ジレンマのほうが通りがいいかもしれない)で、

AさんとBさんが、それぞれ白い石と黒い石が2つずつ入った箱をもらいました。

Q1 Aさんが箱から石をひとつ引くと、白い石でした。石を箱に戻さずに次の石を引いたとき、白い石が出る確率は、黒い石が出る確率よりも
① 小さい
②同じ
③大きい

Q2 Bさんは箱から石をひとつ引いて、色を見ずに脇に置きました。二つ目の石を引くと、白い石でした。一つ目の石が白い石だった確率は、黒い石だった確率よりも
① 小さい
②同じ
③大きい

という問題。

正解は「Q1. ①小さい、Q2. ①小さい」なのだが、成長するにしたがって、Q2のほうで②同じの回答が増えるというバイアスの強化がおこっている。

Q1. については言わずもがなだが、Q2. で「②同じ」と回答してしまうのは「後に引いた石の色が前に引いた石の色に影響を及ぼすはずがない」という考えにミスリードされるから、という説明がなされているようだ。(実際は二つ目の石の色が何だったかという「手がかり」が与えられることで、一つ目の石の色をより正確に予想できるようになる。)

こうした因果関係を過信(?)する傾向が年齢とともに高まって問題を間違えやすくなるのはおもしろい。

人間乱数と成長

人間乱数そのものについても8歳と10歳に0~9の乱数列を書かせてみた研究があるようだ。

An exploration of random generation among children

TPIって指標(相関が強ければ強いほど大きくなる)が8歳から10歳になると大きくなっていて、成長にしたがって「正しい乱数からのズレが拡大している」のがわかる。

「ある数字を書いた後に次にどの数字を書いたか」のグラフが以下のものだ。
f:id:xcloche:20180731204855p:plain
An exploration of random generation among children より引用

グラフは「前の数字との差」を示していて、5の次に6を書いたら1、5の次に0を書いたら-5、ということになる。最も大きな山が立つべき0の部分に、逆に大きな谷があるので「同じ数字の連続」が異様に避けられているのが読み取れる(どうせなら、iからjへの遷移確率の行列をそのまま描いてほしいが……)。
8歳の+1の部分に大きなピークがあるのも要注目で、数を習って間もない8歳児がついつい「4567……」のような連続して1ずつ増えるシークエンスを書いちゃっているということで、ほほえましい。

逆にバイアスにあわせる

上で紹介したブログで、ファイアーエムブレムの確率表示のかなり興味深い工夫が書かれている。

たとえば、ファイアーエムブレムシリーズの封印の剣蒼炎の軌跡新・暗黒竜と光の剣では、攻撃命中率が表示されるにも関わらず実際の命中確率は、表示が50%以上の時には表示よりも高く、表示が50%以下の時には表示よりも低くなるように調整されている。これにより、90%なのにやたら攻撃が外れるとかいうプレイヤーの不満を減じることができる。

これは「ブツ切り」とも「平均化」とも明らかに違ったもので、「90%と言われたとき、90%以上の確率を想像してしまう」ような認知バイアスがあるようだ。

そういえば、ポケットモンスターのゲームは表記通りの確率を用いているが、「ねむりごなは表記75%だけど絶対そんなに当たってない」「ハイドロポンプの80%はウソ」といった「表示されている確率と体感確率が違う」話がよく聞かれる。

f:id:xcloche:20180731212510p:plain

背後には「重要な局面での高命中技の失敗」「ダメ元でやった低命中技での逆転劇」などが印象的で記憶に残りやすい、といったバイアスもありそうではある。

実装した例は知らないが、たとえばゲームにおけるアイテムのドロップ率を「人間乱数にあわせた(自然な印象をうける)ものにする」ことは可能なはずだ。
1%の確率でドロップするアイテムがあるとしよう。直感的には「100回チャンスがあったら出そう」と思いがちだが、100回やって1%のものが出る確率は実は63%程度しかない(期待値は1になるが、これは2回以上ドロップした人によって値が押し上げられているため)。
はじめのほうのドロップ率を1%以下にして、以後は試行回数にしたがってドロップ率が上昇するように設計すると、(2回以上ドロップする確率を押し下げることで)期待値を保ったまま「100回チャンスがあったらだいたい出る」ようなアイテムドロップが実装できるはずである。

かつてソーシャルゲームの有料ガチャの確率操作が問題になっていたが、これは公平性の問題であって、確率カーブをいじいじすること自体が悪なわけではない。
競技むけのゲームでもない限り、コンシューマゲームの「人間向けにチューニングした「快適な」確率」はどんどん工夫をこらしてやっていいと思うし、そういった話をいろいろ聞いてみたい。

※追記
記事を公開して、「ランダムエンカウントのゲームで、戦闘後、一定歩数までエンカウント率を0にするという工夫はこれに当たるのではないか」との指摘をいただいた。これを実装しているという話はけっこう聞くように思う。
敵の出現確率が定数なら「戦闘後すぐに次のバトルがはじまる」ことも当然あり得るのだが、これを人間が「不自然」と感じるのももっともかもしれない(なぜなら現実界での「敵の分布」は一様ではないので)。
ただ、単にすぐ次のバトルがはじまるのは煩わしいのでユーザーエクスペリエンスを損なう、という側面もあるだろうとは思う。

シンボルエンカウントのゲームでは敵は「ある広さのエリアごとに一匹」というふうに配置されることが多く、これが生き物の「縄張り」と対応していると見ると、ある意味「自然な配置」かもしれない。

メダルゲームと標本平均の収束

「人間が自然に感じるように」とも「利益を最大化するように」とも別の方向で確率の動的な操作を行ってきたゲームのジャンルがあって、メダルゲームである。
http://iroirogames.blog.jp/archives/8921473.html

メダルゲームの機械には、週とか日の単位であんまり成績にバラツキが出てほしくないという事情があるそうだ。
ここでいう成績というのはペイアウト(投入するメダルの割合に対する放出するメダルの割合)のことで、これが日によらず一定になってほしい、とのこと。ギャンブルと違って公平性を厳密に守る必要もないので、履歴に応じた確率操作を行ってパフォーマンスを安定させているのである。

ある時間単位で頻度が過度に期待値に近づくわけで、傾向としてはまさに「小数の法則」に対応する。

日単位で収束することを利用して、一日中記録をとって閉店間際に勝てるかどうか予測できる(あるいは、予測して勝った)という話を聞いたことがあるが、ここまでくると眉唾ではある。

バイアスが強化される可能性

ゲーム内で使う人間向け確率なり、メダルゲームの収束機なりによって「チューニングされた確率」に慣れちゃうと、逆にふつうの乱数へ持つ違和感が今以上に増大する可能性はありそうだ。ほどほどにしたほうがいいかも。

どうでもいい話

中にコンピュータと可動おもりをいれて確率のある程度の操作を可能にした、「人間乱数実装サイコロ」ができたらちょっとおもしろいかもしれない。

「対戦チンチロリン」というゲームがあって、プログラムにおけるサイコロの実装が非常にまずくて

「1,3,4,6」の出る確率がそれぞれ1/8、「2,5」の出る確率が2/8になっている

とのこと。
対戦チンチロリン - ゲームカタログ@Wiki ~名作からクソゲーまで~ - アットウィキ
このゲームの場合は残念ながらまごうことなきバグでクソゲーになっちゃったようだが、既存の「同様に確からしい確率」を前提にしていたゲームの中には、確率を変えることでガラリとゲーム性を変えるようなものがあるかもしれないと思う。

確率の話とは少し離れるが、私はゲームで「50回戦闘したな~」と思ったとき、カウントをみるとだいたい30回もいってない、という経験がよくある。常に過剰な見積もりをしてしまうこれにも、何か変なバイアスがかかっている気がする。

メディア依存コンテンツと、Vtuberのフロンティア

メディアとコンテンツ

 私はKindleiPadを持っていて、紙の書籍しかない・紙のほうが安い・電子版が出るのを待ちきれない・とにかく物理書籍がほしい〜!!! と思うとき以外はだいたい電子で本を買う。最終的な割合は半々くらいになる。

 これまでの記事でもいくつか書いてきたが、私には「メディアにあわせたおもしろい試みのコンテンツが見たい」という気持ちがあって、たとえば電子書籍だとハイパーリンクがいっぱい貼ってあったり、いつのまにか内容が変わっていたり、なんか動いたりするような異物がもっとあってもいいと常々思っている。

 漫画の場合、フリーで公開されている「有害無罪玩具」というのがいろいろと新奇な試みをしていて、舌を巻いた。これはおもしろい。

有害無罪玩具

 ただし、むやみやたらに「そのメディアでしかできないこと」をやったらいいかというと、もちろんそうではない。これはけものフレンズのBDについてた監督インタビューに書いていたことなのだけれど、3Dアニメーションで何かを作るとなったとき、2Dから来たクリエイターは必要以上にカメラを回したがる、とのこと。2Dではカメラが気軽に回せないから。特に意味もなくカメラが回るとすれば、たぶんそれはダサい。

 電子書籍メディアで文芸の新しい試みを見たい! にも、そういうダサさはついて回るように思う。新しいと思ったものが実は近い世界ではとっくにもっと高いレベルで発展・成熟したものだった、ということも多いだろう。たとえばパソコン/ゲームは電子書籍が一般的になるずっと以前からあったわけで、デジタル界独自の(テキスト的な)ストーリーテリングの手法は、インタラクティブ性や物語の構造という点において、アドベンチャーゲームに一日の長があるのは間違いない。

 かといって、既存メディアでやっていたことが新しいメディアで少し形をかえて再演されることに価値がないかというと当然そんなことはなくて、メディアを変えて花開く分野だって多いに違いない。

 そういったことは頭の片隅に置いたうえで、でもやっぱり、新しいメディアの特長をいかした演出というのはガンガンやってほしいし、ガンガン見たい。特に発展途上のメディアでは、そうした試みはそのメディアの可能性をグッと広げるポテンシャルがあるように感じられて、見ていてうれしくなる。なにより面白い。

 今回の記事では、Vtuberというメディアで、Vtuberにしかできない、Vtuberの可能性を広げるフロンティアをいくつか紹介したい。

Vtuberのフロンティア

 Vtuberの最前線を考えるため、実写Youtuberを参照点にしてみよう。両者の差違と、その特異性をコンテンツに昇華した動画/Vtuberを紹介していく。

①距離

 誰かをゲストに呼んでインタビューする企画を考えてみる。
 実写の場合はたいてい、実際にその人がいるところに行く・あるいはどこかに来てもらう、ということになる。 手間がかかるし、距離が離れていると困難でもある。
 VRの場合は「VR空間で待ち合わせ」すればいいだけなので、軽いフットワークでのインタビュー企画ができる。
 (実写の場合でも電話インタビューなら遠隔でも可能だが、「アバターが同じ空間にいる」感覚はむずかしい)

 というわけで、ひとつめの観点が「インタビュー・対談の手段としての可能性」である。
 これは各種Vtuberのいわゆるところの「コラボ動画」にも言えることで、気軽に同じ空間を共有できるのが特徴である。

本山らののバーチャルラノベ読書会 第1回
www.youtube.com

 上に挙げた動画は、ラノベ好きバーチャルYouTuber・本山らののチャンネルの生放送企画で、Vtuberがラノベ作家をゲストに招いた企画を行っている。

②仮面

 引き続き「インタビュー・対談の手段としての可能性」の話。
 実写でないのでゲスト側も顔出ししなくてよい。これは非常に大きな要素である。
 というのも「顔出ししなくてよい」というのは顔を隠したいだとか、そういう話をはるかにこえた気軽さを生み出すものなのだ。
 べつに撮影準備に部屋を片付ける必要もないし、化粧をしたり髭を剃ったりと身だしなみを整えなくてもいい。なんならパジャマでもいい。
 FaceRig が何もかもを覆い隠す完璧な仮面をつけてくれる。

③身体

 「新しい形のゲーム実況の可能性」の話。
 ふつうのゲーム実況では、プレイヤーとプレイアブルキャラクターは別ものである。
 たいていのゲームではこれは実写のYoutuberもVtuberも同じなのだが、一部VRゲームについては状況が変わってきている。

【Beat Saber】世界ランキング100位以内に入るまでやめません【おめシス卿の覚醒】
www.youtube.com

 こちらはバーチャル双子YouTuber、おめがシスターズの動画。普段から2人でかけあいながら様々な企画を行っている。Beat Saberは流れてくるノーツを剣で斬るという斬新なゲームで、VR用のコントローラーで実際に身体を動かしてプレイする。Modを入れることでVRChatのアバターが使用可能。

 「配信に使っている3Dモデルをそのまま使えるゲーム」の場合、ゲームによっては実況者とキャラクターは不可分になりうる。
 配信者その人がゲーム空間内にいるわけで、実写にはない奇妙な味がでてくる。

④オブジェクト

 VR空間では物体の創造が現実に比べてはるかに容易で、安価で、無制限である。
 「現実には不可能な物体を使った企画の可能性」の話。

第02回 バーチャル巨大幼女怪獣 大ピンチです!
www.youtube.com

 こちらはバーチャル巨大幼女怪獣、たいらんくんの動画。普段から人類のみなさんと不器用な交流をする動画をアップしている。ビルをたくさん作って踏みつぶして歩くこともできるし、ビームでなぎ払うこともできる。現実では、なかなかできない。

【08小隊】輝き撃ちは盾の上なのか3Dで検証してみた
www.youtube.com

 同じくおめがシスターズの動画。アニメのとあるカットを3Dで検証している。ガンダムを実際にいろいろ動かして配置を検討する。

VRアカデミア】建築家って何? ヴィジオネールって?
www.youtube.com

 今回の記事で、いちばんみなさんに見てほしい動画。半分以上、この動画をみてほしいという気持ちでこの記事を書いた。
 バーチャル建築家「番匠カンナ」はVR世界の建築のパイオニアで、現実にある有名な建築物についてのデザインや技術の背景の話や、VR世界における建築のあらたな可能性について語る動画をいくるか投稿している。
 上の動画では、現実には建てられることのなかった18世紀建築家のアイデアスケッチが、VR世界で立派な建造物として姿をあらわす。
 この動画、単純にトピックがおもしろいのと、動画の緩急が見事で本当にびっくりする。絶対みてほしい。

可能性

 上の動画タイトルにもついている【VRアカデミア】というのは、いろいろな分野のひとびとが自分の専門分野・明るい分野について、Vtuberとして講義の形式の動画をアップして知の共有しよう、という自由参加のプロジェクトのようである。まだまだ人数も少なく発展途上で手さぐりしている印象だが、おもしろい試みだと思うし、規模が100倍くらいになってどんどん盛り上がってほしい。

 今回は「VRでしかできないこと」というテーマで記事をまとめていて、この視点から言えば、VRアカデミア自体は必ずしもその範疇ではなさそうである。じっさい塾講師や専門家の各種解説動画というのは実写のものが数多くある。
 VRアカデミアは、序言で述べた「VRでしかできないこと」にこだわりすぎていると陥る落とし穴のひとつ、「新しいメディアでの少し形をかえた再演が大きな価値がある可能性」のように思う。

 いまいちど、そうしたことを心に留めつつ、でもやっぱり、VRでしかできないことのフロンティアは、おもしろい。話が散らかってきたので今日はここまで。