錬金術師をしていた話

おおむねノンフィクションで、失敗談です。

錬金術ことはじめ

金融の世界では、相場で勝ち続ける方法のことを「聖杯」と呼ぶ。

およそ3年ほど前の話になるが、そのころのぼくは大学院の修士課程で研究をする傍ら、錬金術師をしていた。同じ境遇の多くの人にとってそうなのではないかと思うが、博士課程への進学を考えていたぼくにとって大学院の修士というのは、お金がないことと、お金がないことへの焦燥感がいちばん高まっていた時期だった。同級生たちが次々と就職して稼ぎを得だす一方、自分はむこう数年間もしかしたら無収入(いわゆる「学振」に研究計画が通れば給料をもらえるが、そうでなければゼロ)どころか奨学金という名の借金を重ねつづけるうえ、それが終わった後のアカデミア内外でのよい就職の目処がたっているわけでもない——将来的な展望の欠如と、即物的な金のなさのピークなのである。アルバイトもしていたが、この焦燥感は小銭を稼いだところで満たされるものではいっさいなかった。

国内のドクターコースの就職のポスト・待遇の不充実っぷりの話も耳が痛くなるほど聞いていて、誰かから雇われて金をもらうのではなく、自分の力でもってゼロから金を稼ぐことはできるのか? と、自分の才覚を試したい野心もあった。

そこで、無から金を汲み出す錬金術をすることにした。

現代の錬金術

その頃、ビットコインが爆発し、仮想通貨への投機が大流行した。

ぼくは今も、市場の値動きの様子から未来の株の値上がり・値下がりを予測して儲けようとするような個人投資家による投資・投機の有効性をまったく信用していない。祖父も父も株で損をこいていたし(株で得をしたのはずっと売らずに持ち続けていた祖母だけだった)、多少なりとも統計数学や時系列予測まわりの研究をしていた自分にとって、「市場価格の変動のグラフがこの形になったら買いどき/売りどき!」などとのたまう個人投資家向けのノウハウ(?)はまったくのお笑いぐさだった。儲かった人ほど声がデカく損をこいた人ほど小声になるおそろしいバイアスもある。

もちろん、業界情報に通じて動向を予測するようなまじめな投資もあるのだろうが、ぼくは金も持ってないし、専門知識も持ってないし、別にその業界動向を読むスキルを磨くことにも興味がなく、金融商品としての仮想通貨はぼくにとってぜんぜん魅力的ではなかった。ぼくは分の悪い賭けはきらいなのだ。

とはいえ金はほしく自分の力を試してみたいという動機があったので、それでもここに何かつけいる先がないものかと、ブロックチェーン技術や仮想通貨の採掘、取引のシステムをけっこうリサーチした。

仮想通貨の基幹技術・ブロックチェーンにおいて、PCの電気と演算能力を使って新たに仮想通貨を作り出す「採掘」は、何もないところから金を生み出しているようでその実、市場の原理によって、だいたいのところただの電気代と貨幣とのほぼトントンな交換(少なくとも電気代の高い日本では)である。電気代の安い発展途上国バラックに所狭しとPCが並べられ、せっせと仮想通貨が「採掘」されている――このビジョンにはSF的おもしろみはあるが、順張りで投資するのとほぼ変わるところがない。この頃、単にエネルギー/膨大な計算能力と貨幣価値の交換であったこの「採掘」には環境問題の視点からの苦言も出ていて、へぇ~と思った覚えがある。つい最近も電力不足の文脈で言及されていた。

通貨の採掘は電気代とトントンだが、計算にともなう熱はいっぱい発生するので、暖房器具としては実質電気代がかからないということで優秀らしい。マジで何?

採掘もせず、順張りも逆張りもせず、ではどうやって無から金を生むかといえば、現代の錬金術アービトラージ裁定取引)の登場である。

裁定の機会

アービトラージというのは言ってみれば商売の一番の基本で、端的に言えば安いところで買って高いところで売る、それだけの話だ。

仮想通貨や株の取引所では「何円なら売りますよー」「何円なら買いますよー」の注文が無数に投稿され(「板」と呼ばれる)、その注文を受けたい人がその条件をのんで取引を行うことで値段が上がったり下がったりする。買い注文より売り注文のほうが安かったときは取引が自動的に成立するので、(一番高い買い注文)<(一番安い売り注文)の間にはつねに少しのギャップがあり、取引所内で売り注文より買い注文のほうが高くなること、つまり買値より売値が高くなることはない。

じゃあ、いくつも取引所があったら?

取引所は世界中に無数に存在する。取引所①で商品Aを売る値段が取引所②で商品Aを買う値段より安い、ということは起こりうるし、今この瞬間にもおこっている。このとき、取引所①と取引所②で同じ数量の商品を同時に買い、売ることで、どこからかその差額分がポッケに入ってくる。

このお金はどこから来たんだ? バグか?

xcloche.hateblo.jp


これが裁定取引の原理である。

こういうチャンスは実は無数に存在するのだが、一瞬のうちに解消してしまい、たくさん取引所があってもほぼ価格が統一された、安定した市場の状態になる。実はこの取引所間の価格の統一に働いている力こそが、この「裁定取引」である。取引所間で(手数料をこえる)価格差があるかぎり裁定取引のチャンスがあり、裁定取引が行われることによってその価格差が解消される、というワケだ。

現代的な株の取引は手数料も高く、高頻度取引のアルゴリズムがしのぎを削り、おそらく素人にこうした手法で立ち入る隙はまあないだろうと思われた。なるべく取引所の近くにマシンを置いて、わずかな通信時間を詰めてでも同業者を出し抜くとかいう世界である。

当時はその点新しかった仮想通貨にはまだまだ隙が多く、客寄せのため各取引所の手数料も安かった。加えて金融商品としての投機性も高かったためか、プロによる本格的な裁定取引はそこまで参入がなかったようである。

ぼくはとりあえず取引所からの情報取得のコードを適当に書き、APIから1秒ごとにいくつもの取引所の板を取得しては裁定機会があるのかうかがった。はたしてそこにはけっこうな数の裁定機会が解消されないままに残されていた。

錬金術(第一段階)

なんかできそうな雰囲気だったので、とりあえずは実際にアービトラージを行うコードを書いて回してみることにした。状態を確認してから発注まで1秒未満のうちに終えなければいけないので、もちろん人の手ではなく、botによる自動取引である。自動取引bot御用達のライブラリまわりはけっこう整備されていて、各取引所のAPIを統一的にまとめたライブラリを通せば、取引所への認証から板の監視、数量を決めた取引などを一括で管理できるようになっていた。

毎回絶対に儲かる投資なんてのは存在しないわけで、リスクが少ないといわれているアービトラージの主なリスクは、スリッページと呼ばれるタイミングのズレ(板の確認をしたときと注文を入れたときの1秒以下の時間差のうちに価格が変わってしまう)である。あと、単純に取引している通貨自体の現実の通貨からみた価値が下がってしまうこと。

いざbotを回してみると、裁定機会に入れた取引は心配していたスリッページもほとんどおこらず、仮想通貨自体の額面(持ってる通貨の量)は少ない日でも日利0.2%くらいのけっこうスゴめの割合で増えていった。一年で軽く倍以上になる計算だ!

ぼくは無から金を汲み出すbotのパフォーマンスにけっこう満足し、ターミナルに出力される取引履歴を眺めてはニンマリした。バグ技でお金が増えるのは実際、かなりおもしろい。

錬金術(第二段階)

バグ技でお金が増えるのはメチャクチャ楽しいのだが、金のない学生のため元本が異常に少額で(許容できるのこれくらいかな〜とはじめに入れた3万円だけで、いろいろ試しているうちにそれも目減りして残念な金額になっていた)、増えてもぜんぜんたいしたことなかったというのが実情である。

botを手で書くにあたって同業者がどれくらいいるかな〜、どんな風に書いてるのかな〜、と軽くリサーチしてみたところ、同じようなことをやってるっぽい人はいたものの、アルゴリズム自体を高額で販売したり、「詳しいことが知りたい人は連絡を……」とアヤシゲな勧誘をしている人が多かった。もしかしてこのbot、売れるものなのか?という考えがよぎった。

ぼくが個人で回していてもたいしたことにはならない。同じようなものは販売されている。これはイケるぞ!と思ったぼくは、錬金術の第二段階目を試みることにした。これを商品として売るのではなく、オープンソースで無料で一般に公開し、botを使うならぜひこのアフィリエイトリンクから取引所に登録してね、という記事を書いて利用者を募ってみたのである。

当時の仮想通貨取引所は新規参入の顧客を増やすため、大々的にさまざまなアフィリエイト・キャンペーンを打ち出していた。ぼくがアービトラージの標的としていた海外の大手取引所は、取引量に応じた報酬プログラムを使っていた。紹介リンク経由で登録した人が取引をするたび、取引手数料である0.1%のうち、半分や四分の一を紹介者にバックしますよ、という仕組みである。

10000円の取引につき5円とか2.5円と考えるとわびしい気持ちにもなるが、投資としてやっている人はもう一桁〜二桁くらい上の取引をするだろうし、アービトラージは一日に20回も30回も同じ通貨ペアを売ったり買い戻したりするわけである。こうした総取引量に依存する出来高制の報酬プログラムとの相性はすこぶるよかった。

アービトラージbotが高額で販売されてたりアヤシイ勧誘に使われているところに、オープンソースの明朗コードで取引botを公開し、botを使うかわりにアフィリエイトリンク経由で取引所に登録してもらい、そこでbotを通した裁定取引が行われるたびチャリンチャリンと小銭がぼくのもとに入ってくる——ぼくもbot利用者もwin-winの、完璧な計画……の、はずだった。

錬金術と秘密主義

中世の錬金術は多分に秘密主義的な側面をもっていたといわれる。

というのも、現代的な視点からいえば、本当に卑金属から金が作れていたはずがないわけで、金を作れない偽の錬金術師にとって「金を作り出す秘法」は絶対に秘密でなければならなかった(そんなものはないので)。「金を作り出せる」と騙ってデモンストレーションし、パトロンを手に入れて研究をしていた錬金術師たちが、どのようなインチキで金が現れたように見せていたかには、多少の資料が残っている。

銅にヒ素蒸気を反応させると、表面が白くなり、銀っぽい見た目になるそうである(亜鉛や水銀でもできるらしい)。
Image

https://sodiumlamp.tumblr.com/post/116939433111/arsenic-no-soapより引用。表面がヒ素と反応した銅の鉱石。

さらにここに細かい金粉を加えると、きれいな黄金色の発色になって、まるで金のように見えるようになるそうである。このトリックはインチキのデモによく用いられるものだが、実は同時に錬金術の成立に大きく寄与した現象でもあった。

というのも、表面だけとはいえ一見別の金属に変わったように見えるために、すべての物質は相互変換可能で、金もまた別の金属をいくらか処理することで作ることができる、という錬金術の根本のアイデアを導いた原因と考えられることだ(初期の錬金術師もまた、このトリックにだまされていたとも言える)。

いろいろ読んでみるとこのあたりのトリックの話はThe role of gold in alchemy. Part III の Fraudulent Transmutationsに詳しく、

link.springer.com


西暦300年頃のエジプトのパピルスに書かれたレシピの話(銅に金と鉛の粉をまぜたものを塗って数回加熱を繰り返すと、鉛が溶けて金だけが残り、ぶあついメッキのような状態になり、表面は実際に金なので試金石では区別できない)、 1390年代のカンタベリー物語のインチキ錬金術師の話(石炭の内部の空洞に銀(アマルガム)を詰め、蝋でふたをして暖炉に放り込むと、蝋が解けて銀が流れ出し、水銀が蒸発して銀が残る。結果、石炭が銀になったように見える)ほか、さまざまなトリックが引かれている。

錬金術インチキについて調べてるとかなり楽しくなってしまって脇道にそれてしまったが、何が言いたいかというと、ぼくは錬金術を公開することで利益を得ようとしたわけだけど、やっぱり錬金の秘術は隠匿するものなんだな〜、ということである。

秘密の共有

裁定取引botオープンソースで公開する、ということについての利害関係を整理してみると、次のようになる。

公開者:利用者に紹介リンク経由で取引所を利用してもらうことにより、利益を得る。
利用者:取引botを利用し、ローコスト・ローリスクで利益をあげることができる。

さらに、報酬プログラムが一時金でなく出来高制である都合上、ぼくが利益をあげるためには取引をずっと継続してやってもらう必要があり、ぼくにはbotを改良する動機こそあれ、だまして登録者を増やす利益がない(そもそもソースコードは公開していて騙せない)。

この関係だけ考えればwin-winなのだが、このゲームに利用者2(ツー)や公開者2(ツー)が絡んでくると、話はそう単純ではなくなる。

この状況、公開者であるぼくにとっては利用者が多ければ多いほど利益があがるシステムなのだが、市場に存在する裁定機会は限られているので、利用者としては競合する利用者が少なければ少ないほどいい、という理屈が生じる。つまり、ロジックでは利用者にとってはbotを褒めたり拡散したりする動機は存在せず、むしろ秘密にしたり悪い評価をすることのほうに利得が生じる。他の似たbotの開発者にも当然、ぼくのbotを褒めたり拡散したりする動機はない。

つまり、実はぼく以外のだれにもbotを利用しこそすれ高評価したり拡散する動機は存在しない。ぼくとしてはwin-winでみんなで幸せになろうくらいの気持ちで公開したのだけれど(情報商材の煽り文句みたいになってしまってなんかイヤではある)、利害関係によって錬金術の秘密を知っている人だけにとどめようとする秘密主義の方向性が自然に生じうるんだな~、と、やたら感心してしまった。

ゲーム理論的な最適戦略はさておき、実際公開したところではけっこうあたたかいお言葉や改良案、質問などもいただき(アンチもいた)、数十人ほど定期的に取引するユーザーがついてくれた。取引所からは紹介リンク経由で登録してくれた人にどれだけ取引があったかの日次レポートが届くのだが、みんなけっこう長い間使ってくれていたので、一応ちゃんと本当に儲かるアルゴリズムとして成立していたのだと思う。

おわり

この話にはオチがあって、通信速度が早くて手数料が安い大手の取引所をメインに推していっぱい登録してもらっていたのだが、その取引所が急に「報酬プログラムの管理システムのバージョンアップをします」とアナウンスして旧ページを閉鎖して3年が経つが、いまだにバージョンアップのバの字も行われてないし報酬も一銭も支払われていない。業を煮やした人たちが取引所の公式アカウントに連日「いつバージョンアップが終わるんですか?」とリプライしているのだが、取引所は「今やってるとこです!乞うご期待!」みたいな毎回まったく同じ文面を返信してくれていて、まったく上手の錬金術師もいたもんだな、といった感じである。

他のいくつかの取引所のぶんを集めるとそこそこのおこづかいくらいにはなったのだが、結局コーディングに投じた時間や労力の費用対効果を考えると、結局そのへんでバイトしたときくらいと同じくらいかな……程度のものである。

思い返してみると、儲けたいというよりも、バグ技みたいな方法論がぼく好みで、それに駆動されてやっていたところが一番大きかったように思う。botは公開してしばらくしたら飽きて放置していたのだが、1年も経つと仮想通貨ブームが去ってしまって、手数料が高くなって利益が出しにくくなったり、報酬プログラムが時限式で切れたりといった兼ね合いで、利用者も報酬も少なくなった。ちょうどその頃になんとか学振の研究員になることができ、研究専念義務があるため錬金術はきっぱりやめてしまった。

残ったのはちょっとのおこづかいと、「どこかに無からお金がうまれる仕組み、ないかな~」と探す癖(これがわりと厄介)ばかりである。

小さなインターネットと、大きなインターネットのこと

先日、いつものように漫然とインターネットをしていると(漫然とインターネットをするのはよくない)、興味深い投稿を見かけた。詳細は忘れたが、何か論議を呼ぶツイートがバズっていて、その投稿を開いてみるとツイートの投稿者が(比較的初期に)リツイートしたらしい人に

フォロー外から勝手にリツイートすんなや

とリプライしていたのである。

「この人には、フォロー外からリツイートするのはマナー違反」という規範があるんだ! いにしえのインターネットには「直リンク(トップページではなく、コンテンツのページに直接リンクすること)厳禁」という謎マナーがあったが、FF外リツイート禁止はこれに近いように思う。

スケールと公共化

バズったツイートを見ると思うのは、ある程度のオーディエンスを集めたツイートは公共化する、ということだ。ある程度以上共有されたツイートには多数のリプライが寄せられるが、これらのリプライはもはや投稿者へ向けたメッセージなどではない。そこにあるのはYahoo!ニュースのコメント欄のような、投稿を見た感想であったり、批判であったり、似たような体験談であったりするが、それらのコメントのターゲットは投稿者ではなく、同じようにコメントを見ている他者であるように感じられる。

逆にいうと、バズっていないツイートはある程度私的な空間で共有されている。予想されうるオーディエンス(≒フォロワー)の反応はある程度推測可能であり、倫理観やミームが共有されており、内輪ネタがウケうる下地が存在する。そして、この小さなインターネットに向けて発信されていた投稿は、バズったとき突然、シームレスかつ徹底的に、大きなインターネットで公共化される。

共有されたところでネットワーク全体がある種の性質を持っている場合(多くのSNSの初期や、内輪のみによるDiscordなど)はいい。巨大なSNSは残念ながらそうではなく、拡散された先には膨大な数の予測不能なオーディエンスが存在する。

中国の例

※追記(2021/02/16)


ある程度以上拡散されるとネットの言説も公共性をもつ、ということに関して、中国で次のような法的判断があるようだ。

网络谣言转发超500次 可构成诽谤罪

中国語はサッパリなので自動翻訳と雰囲気からだいたいのところを類推すると、どうもこれは中国の最高人民法院及び最高検察院から発表された法律判断で、

  • 誹謗中傷のメッセージの閲覧回数が5000回、あるいは500转发(Weiboにおけるリツイート)を超えた場合、重大性があるものとして名誉毀損罪の構成要件とすることができる

ということらしい。政府がことの重大性をしきい値によって厳密に数字で定義し、市民は「500RTを超えそうなら投稿を消す」ことで自衛する、というのはなかなかに面白い状況である。

ダンバー数

人類学者が使う用語にダンバー数がある。これは、人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限、で、要は交流をとる知り合いの典型的な数(の上限)、と考えてよさそうなものである。100とも150とも300ともいわれるこの数は、オーダーとしては個々人をそれぞれ個人と識別してやり取りしている人数の、直観的な数と一致するように思う。どんなにフォロワーが多くても個々を認識してやりとりするのは100人~200人くらい、というのはけっこう同意できる数字ではないだろうか。

ちなみにダンバー氏は現在もご存命で、最近でも電話の通話のネットワークやSNSに実際にダンバー数のような上限が存在するといった論文や、人間の脳活動と社会活動に関する論文の著者に名を連ねている。

スモール・ワールド効果

複雑ネットワークの理論を勉強すると一番最初に出てくる有名な小話に、六次の隔たりと呼ばれるものがある。これは、どんなに離れていそうな人2人を選んでも、知り合いの知り合いの……を辿っていくと、6人で繋ぐことができるという仮説である。知り合いの知り合いの……を6回やると誰でもだいたい全人類と繋がる、というのは衝撃的だが、人的ネットワークやSNSのデータによってこれはある程度実際に検証されている。
Wikipediaにはこうある:

2008年、日本国内最大のSNSコミュニティmixiについて、同社のエンジニアによってスモールワールド性の検証記事が書かれ、6人目で全体の95%以上の人数に到達できることが明らかにされた。2011年には、Facebookミラノ大学による共同調査の結果、世界中のFacebookユーザーのうち任意の2人を隔てる人の数は平均4.74人であることが発表された。

以前、「人間乱数」の記事で、人間は乱数を正常に認知できない、という内容について書いた。

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これと類似して、人間は組み合わせ爆発や大きな数も正常に認知できない、ということも言えるのではないのかという気がしている。

階層化・クラスター化され、別クラスターとのやりとりの少ない小部屋の中で認知の上限いっぱいいっぱいを相手にSNSを運用しているときに、ひょんなきっかけでバズって未知の大部屋に放り込まれてしまう――なかなか絶望的な状況ではないか?

インスタント・SNS

原理的には、インターネットに何かを投稿するというのは、全世界に向けてその情報を公開することである。ただし、実効的には、決してそうではない。投稿を見ているのは平常時はその投稿者をフォローしている100人とか1000人とかであって、全世界がそれを見ているわけではない。

フォロー外から勝手にリツイートすんなや

という反応は愚かだろうか? 実効的なオーディエンスを考えると、ぼくはこれがある意味で真っ当な反応だと考える。その投稿者をフォローしている100人とか1000人、そのフォロワーがリツイートして拡散する二次の隔たりまでが彼の想定していたSNSのオーディエンスであって、その外の人はお呼びではないのだ。

普段のSNS利用で「二次の隔たりより外の人」が介入してくることはないわけで、いくら投稿の閲覧がオープンであろうが、インターネット体験はごく私的で、クローズドなものになる。この、原理的にはオープン・実効的にはクローズドな構図の齟齬に息苦しさを感じている人は多いようで、次のような話を聞くことがしばしばある。

  • インターネットではコンテンツの辛口の批評はしにくい(関係者がエゴサーチして傷ついたり、争いが発生するため)ので、クローズドな場がほしい(あるいは、やっている)

  • 思いつきを発言しにくい

「インターネットは公共の場だから放言せずしっかり考えて発言しろ」なんてのは耳タコかつ当然で、原理的にはグローバルかもしれんが実効的にはクローズドだから、そのクローズドな場に応じた思いつきが言いたくても言えないフラストレーションがある、というのがここでの問題なのである。インターネットは公共の場だから放言せずしっかり考えて発言しろ。

このあたりの齟齬の息苦しさの受け皿が、一日で消えるしフォロワーしか見えないツイッターのフリートであったり、インスタグラムのストーリーズであったり、メモ禁止を規約に掲げるクラブハウスで、これらはインスタントであることによって実効的にオーディエンスを想定圏内に制限する自己表現・言論の空間なのかな~と、最近はボンヤリと考えている。全部やったことないけど。

あと、うまく理由を言語化できないが、いくら公開されているからといって人のfav欄を覗くのはマナー違反だと思います。

分岐する物語:「アンチ・選択肢」の試み

以前、ゲームにおける選択肢というものがもつ性質や、ある種の禁止事項について書いた。

xcloche.hateblo.jp

簡単に要約すると、この昔公開した記事で書いているのは遡及的な選択肢(その選択肢をとることで、選択肢以前に決まっていたはずのものごとが変化するような選択肢)は奇妙である、という話である。有名な例としてはDQ1のりゅうおうによって提示される選択肢があり、りゅうおうの「この世の半分をお前にやろう!」という選択肢に「いいえ」と答えるとラストバトルからエンディングに続くが、「はい」と答えるとリムルダールの町の宿屋で目覚めてそれまでのやりとりが夢だった夢オチの展開になる、というものだ。選択によって、それまでの状態が夢だったか現実だったかが遡って決定されるのは奇妙だろう、という趣旨の話である。

また、記事の後半では、この奇妙さを逆手にとった演出への利用の試みについても触れている。

選択肢についてはもうちょっといろいろ書きたいな〜と思っていたところ、先日、フォロワーが、ゲームにおいてどの選択肢を選ぶかはほぼ事前に決定されている(「選択」は行われていない)という話題などあれこれ語っていて、オモロそうだなと思った。 okimochivation.hatenadiary.jp
(このへんの記述は詳しく書かれていなかったので残念、書いてほしいな〜)

今回の記事ではより一般に、ゲームにおける「選択肢」とは何か、選択肢の歴史と、選択肢のあり方を問い直すアンチ・選択肢の実例と、その試みや演出意図などについて書く。

「選択肢」前史

まず、物語構造における「選択肢」がかつてどのような形をしていたかをみてみよう。

チュンソフト弟切草」(1992)は現代のノベルゲーム・ビジュアルノベルの形式の草分け的存在と言われている。
ここでいう現代的な形式というのは、

①文章が主で、テキスト中に「選択肢」が挿入されること(テキストの主体化)

②選択肢によって展開が分岐すること(フローチャート式)

③エンディングが複数あること(マルチエンディング)

といった特徴をもつことである。

これらの特徴を「弟切草」以前や、この頃にでた90年代のアドベンチャーゲームと比較してみよう。弟切草以前にメインストリームとしてとられている選択肢の形式は、おおよそ

コマンド入力式:
コマンド待機画面で「シラベロ」「イケ」などのコマンドを文字で入力する。
ポートピア連続殺人事件」「MYSTERY HOUSE」など

か、

コマンド選択式:
コマンド待機画面で、表示された「調べる」「話す」などのコマンドから次の行動を選択する。コマンド入力式から発展したもの。
北海道連鎖殺人 オホーツクに消ゆ」や「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」など

で、「弟切草」がテキスト→選択肢→テキストと、テキストのみで進行している()と比べて、それまでの作品はコマンド待機状態→コマンド入力(選択肢)→テキスト→コマンド待機状態と、コマンド待機状態をベースとした物語展開が行われていたことがわかる。

また、「弟切草」が選択肢で物語を分岐させ()、複数のエンディングをもつ()のに比べ、コマンドタイプのゲームはそれぞれのコマンド待機状態で正しい選択肢を選ぶことで次の段階にすすめるという、一本道の構成となっていて、エンディングも基本的に1つである。

開発元のチュンソフトは「弟切草」を皮切りとして、サウンドノベルと銘打ち「かまいたちの夜」など、こういった形式の作品を発表していくことになる。また、この「弟切草」の方式はけっこう革新的だったようで、それからしばらくして他社のノベルゲーム・ビジュアルノベルでも盛んに用いられるようになっていく。

後にマルチエンディング方式のゲームが大きく花開いたのはアダルトゲームの世界だったが、その先駆けであるビジュアルノベル黎明期のLeaf「雫」(1996)にはこんなエピソードもあったそうだ。

サウンドノベルの手法でアダルトゲームを作るという前代未聞の試みについては、当初Leaf社内でも賛否両論が巻き起こった。協議の末、Leaf上層部からGOサインと引き換えに提示された条件は「開始5分でHシーンに辿り着けるようにせよ」というものであった。ゲームの形式はどうあれ、まずはユーザーが性的な欲求を手軽に満たせるものでなければ、アダルトゲームの市場には送り出せないという判断である(1998年「TECH GIAN」インタビュー記事より)。
その結果、本作では物語序盤の選択肢において捜査依頼を断るだけで簡単に性的描写を伴うシーンに辿り着くことが可能となっている。尤も、その内容は「主人公は無気力な暮らしのままに卒業の日を迎えるが、卒業式の最中に突如参加者全員が発狂し、「仰げば尊し」を合唱しながら乱交を繰り広げる」というバッドエンドである。(Wikipedia「雫 (アダルトゲーム)」より)

マジで何?

世界の整合性:弟切草かまいたちの夜

前章では「弟切草」「かまいたちの夜」が現代ノベルゲーム・ビジュアルノベルの草分け的存在であるということを述べた。

しかし、実はチュンソフトによるこれらの作品、現代的なメインストリームのマルチエンディング作品の構造とは決定的に違う点がある。

現代のメインストリーム的な作品では、選択肢によってストーリー・エンディングが分岐する世界でも、物語の背後にある過去・設定は共通で、静的なものである。ここでは、選択肢による分岐は現実世界における「あの時ああしていればどうなったかな……」という、ありえたかもしれない可能性、別の行動をとったIFの世界に対応している。

対して、「弟切草」「かまいたちの夜」は、選択肢によって分岐する世界が整合していない。

どういうことだろうか。「かまいたちの夜」や「真・かまいたちの夜」シリーズを例にとって説明しよう。「かまいたちの夜」のメインストーリーは、雪山の山荘に訪れた人々が不可解な事件に巻き込まれる「ミステリー編」だが、選択肢によってはそれとは全く違う物語が展開される。アナザーストーリー「スパイ編」で登場人物たちは各国からきたスパイであるということが明かされて諜報合戦がはじまるかと思えば、ダンジョンと化したペンションを探検するストーリーや、ちょっとエッチな展開になるストーリーもある。ミステリー編では登場人物はスパイではないし、ちょっとエッチ編ではミステリー編ベースではすでに死んでいたはずの人が死なずに出てきている、なんてこともあって、選択肢によってドンドン過去が遡及的に決定されていく。

ここでの選択肢の機能はもはや先の例のように、現実世界の「あの時ああしていればどうなったかな……」のIFの可能性分岐とは大きく異なる。ここではいわば、選択肢が選ばれる前は、たくさんの物語の可能性(世界)が重なりあって存在していて、選択肢は「それがどの世界の話だったか」を後付けで決定する機能を持っている。

チュンソフトは以降の作品でもこのような後付けで世界を決定する機能の選択肢を用いていたが、後のノベルゲームのメインストリームは、わかりやすい一貫した世界(過去・設定)でのIFを見せる機能の選択肢が覇権をとることとなった。

分岐する物語

前章で、選択肢は「あの時ああしていればどうなったかな……」という、ありえたかもしれない可能性、IFの世界を分岐させる機能として用いられるようになったことを述べた。そこからマルチエンディングのさまざまなゲームが生み出されていったわけだが、ここで注目したいのが、「エンディングが複数ある」のは、小説や映画など既存の物語の形式にはほぼなかった特徴だということだ。

考えてみると、「お話」が複数の結末をもつというのはとても不可解な状況である。

実際にあったことがストーリーとして語り直される場では、物語が分岐することはありえない(過去はひとつしかないため)し、時間芸術である映画や戯曲、はじめから順番に読むよう方向づけされている小説でも、分岐の構造は基本的に生じえない。

強いてあげるなら「女か虎か」のような、「このあと、どっちになったのだろう?」を想像させるリドル・ストーリーのオープンエンドがこれに近いだろうか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/リドル・ストーリー

が、これについても「どちらの結末が正解なんだろう?」と考えさせることが企図されており「どちらかが正しい」と想定される以上、分岐した物語のどちらもが正しいマルチエンディングは、物語構造において全く新しいパラダイムなのだ。

こうして、「あそこでああしていればどうなっただろう……」を実際に見せることができるこの方式は、物語展開の可能性を大きく広げることとなった。が、別の選択を行ったIFの世界が物語として描写されていることは、同時に、「選んだ選択肢の先」と「選ばれなかった選択肢の先」が比較されることを意味する。

恋愛シミュレーションゲームでは、各キャラクターに個別ルートとエンディングが割り当てられており、多くの場合、そのキャラクターのもつ問題とその解決がその流れに充てられる。あるキャラクターを選ぶと、選ばれなかったキャラクターの問題は(表面化されないとはいえ)解決されていないままになるわけである。プレイヤーが選択肢を能動的に選ぶことによって、あるキャラクターの問題は解決され、別のあるキャラクターの問題は解決されない。ここで、プレイヤーは選択によって救済と放置の能動的な決定を司っていることになる。*1

おそらくこういった気持ち悪さ・後味の悪さが、KID「Ever17」(2002)をはじめとする後の「グランドフィナーレ(すべての問題が解決される、最終的なルート)」の発明・流行へと繋がっていくのだが、本稿では、「選択肢」によってさまざまな分岐を生じることとなった物語世界の、最近のもうひとつの潮流、アンチ・選択肢の試みについて書く。


アンチ・選択肢の誕生

基本はテキストが流れ、途中で挿入される選択肢によって物語が分岐していく━━この物語構造が一般的なものとなって、陳腐化していくのにしたがって、ゲームにおける「選択肢」という装置自体を対象化し、その機能を解体してやろうという作品が現れはじめた。

ここからは、選択肢がどのような機能をもっていて、その機能がいかにして解体されてきたか、実例をあげて解説していく。

各章で、章題に挙げた作品の核心部分に触れるので、ネタバレが嫌な人は各自自衛すること。それぞれネタバレしてなお面白い作品であることは保証するが、鑑賞の姿勢は変化するだろうし……

①選択肢の特権性:DDLC、君と彼女と彼女の恋

そもそも、「プレイヤーが選択肢を選ぶことができる」というのはどういうことだろうか?

②選択肢の可能性:2236 A.D.

次に解体されるのは「選択肢によって、よい未来に到達できる」という、選択肢の可能性である。

③選択肢の実在性:デイグラシアの羅針盤

いや、そもそも、選択肢なんてものは本当にあるのだろうか?

むすび

ノベルゲームの界隈でいまこうした実験的なことを試みているクリエイターはごく限られているのだが、商業ゲームでそれをやってる大体みんなが集ったおもしろインタビュー記事があるので一読をオススメする。

www.4gamer.net


今回は、「分岐する物語」という定型が広がって、その分岐の機能を批判的にみたり対象化したりした「アンチ・選択肢」とも呼ぶべき切り口・演出がいろいろ試みられていることを書いた。既存の定型の特徴をあれこれ解体してみて、何か新しい「アンチ」のアプローチを探すとオモロいものが見つかるかもしれない。

落穂ひろい

  • 選択肢の機能へのタダ乗り

RPGや一部のノベルゲームには、選択によって物語がほとんど(あるいは全く)変化しない選択肢が登場する。これは、選択行動によってプレイヤーに主体的に物語に介入している感覚を錯覚させながら、内部的には選択が行われていない、巧妙なトリックと言えそう。

  • 群像劇と選択肢

いろいろな登場人物の視点をザッピングしたり、三人称的に物語を追う群像劇の場合(「街」「428」など)、選択肢は主体的な選択というより、話を目まぐるしく動かす相互作用の起点として扱われているように思う(このときAさんが「はい」「いいえ」のどちらを選ぶかによってBさんの行動がどう変わって、Cさんにはどう波及するだろう?といった感じ)。神の視点から「ここでの選択が変わったらどうなるだろう?」で変化を楽しむような機能もありそう(「prismaticallization」など)

  • オタクあるある

ゲーム的リアリズムの誕生』には、「メタ構造をもつゲーム、オタクが批評しがち」というオタクあるあるが書いてある。たすけて〜

*1:主人公である主観キャラクターの層では問題がないものの、プレイヤーの層で取捨選択のジレンマ・選択の責任が生じる構造になっている。このあたりの批評は東浩紀動物化するポストモダン』『ゲーム的リアリズムの誕生』あたりに詳しい。