なぞなぞの話

クソなぞなぞ

Q&Aクソなぞなぞ(ぼく命名)というある種の定型のダジャレをつくるのをちょっと昔からやっている。こんな感じだ。

説明するまでもないがいちおう説明すると、これは「イースター島」と「いいスタート」がかかっているわけで、クソなぞなぞと呼んでいる名前の通り、クソみたいなダジャレである。

マイベスト・Q&Aクソなぞなぞをいくつか挙げる。

Q . どれくらいの数が炭鉱で死んだのかな
A . かなりや

...

Q . 毎日利用してる人の割合は?
A . スーパー銭湯

...

Q . オタクから手紙がきたよ
A . オタより

...

Q . 腹痛で中座した人がぜんぶお会計してくれてたよ なんでかな?
A . はらいたいから

...

Q . 金持ちはどこに家を建てるの?
A . リッチがいいと思ったところ

クソなぞなぞと謎かけ

実はこの形式の成立や実作の作り方には経緯があって、ぼくの内部的には「謎かけを逆にやる」ということをしている。たとえば

Q . 腹痛で中座した人がぜんぶお会計してくれてたよ なんでかな?
A . はらいたいから

を謎かけ風に言うと、お題「腹痛」というのをもらったとして

回答者:腹痛とかけまして、飲み会で見栄を張る人とときます。
出題者:その心は?
回答者:どちらも「はらいたい」でしょう

ということになる。この場合、

お題「腹痛」→腹痛に関係するダジャレを考える→はらいたい→はらいたいのってどんな人だ?→

という思考をたどってこういう解き方をすることになるわけだが、Q&Aクソなぞなぞは違う。テーマは特に決められてないので、

はらいたい」ってダジャレになるよな~→「腹痛」と「払う状況」が成立するQ. ってなんだ?→

で完成で、ダジャレスタートなので無理にテーマからひねり出す必要がなく謎かけよりエコなのだ。

簡単なのでみんなもクソなぞなぞ作ってね。

ループする因果:「ドロステのはてで僕ら」

ドロステのはてで僕ら

先日、映画「ドロステのはてで僕ら」を観た。これが非常におもしろかった。

www.europe-kikaku.com

雑居ビルにあるカフェで起こった、SFめいた事象。
テレビとテレビが「時間的ハウリング」を引き起こし、2分前と2分後がつながった。
襲いかかる未来、抗えない整合性。
ドロステのはてで僕らは ――。

公式サイトの宣伝文にあるように、「ドロステのはてで僕ら」は「カフェにある2つのモニターが2分の時差を開けて繋がってしまった!」というすこし・ふしぎな現象が発生したカフェを舞台に、マスターや店員、客、近所の住民たちが、タイムテレビを利用しようとしたり逆に振り回されたりする70分間ワンカット(っぽい撮り方の)ドタバタ時間SFコメディ・カフェ映画である。

2020年7月現在劇場公開中なので、ぜひ足を運んでみることをおすすめする。

時空的ハウリング

メインのギミックである、2分の時差を開けて2つのモニターが繋がる時空的ハウリングとは何かというと、こんな感じである。

モニターAの画面には、モニターBの前にあるものが映る(スカイプ通話と同じ)。ただし、映るのは2分後のモニターB前である。モニターBはその逆で、2分前のモニタA前が映る。

冒頭のシーンはこんな感じ(うろ覚え)。

カフェの2階の自室に戻ったマスターは、部屋のどこかから声が聞こえてくるのに気づく。声の源はどうやらPCのモニター(モニターA)らしい。モニターには自分そっくりの男が映っていて、こちらに語りかけてくる――「おい! こっちこっち! 俺! 俺だよ! 2分後の俺。下のカフェに行って、このこと2分前の俺に教えてやれよ」

「2分後の自分」の指示にしたがったマスターは1階カフェのモニターB前に行き、2階にあるモニターAの前に座っている2分前の自分に語りかける。「おい! こっちこっち! 俺! 俺だよ!」――

こうして「見えてしまった未来と整合的にすすむ」映像がノンカットでずっと展開されるわけである。

モニターAから未来情報「2分後のモニターB前の光景」が伏線として提示され続け、2分ごしで回収され続けるのがこの「ドロステ」という作品である。

モニターの向こうには「なんでたった2分でこうなったんだ?」と思ってしまう光景が次々と映るのだが、物語の構造上、謎は少なくとも2分以内に回収される――この連続がメチャクチャ小気味いい。「カメラを止めるな!」の前半と後半が同時に展開され続ける感覚だろうか。

また、キービジュアルにあるように、モニターAとBは序盤ですぐ鏡合わせの位置に置かれる。時空ハウリングしたモニタを鏡合わせに置くとどうなるか。

こうなる。モニターAに2分後のモニターA(4分後のモニターBの前にあるものが映っている)が映る構造が繰り返されるわけである。

タイトルの「ドロステのはてで僕ら」の「ドロステ」は、相似的に繰り返される構図を指す言葉「ドロステ効果」からきたもので、映像の構図としてもおもしろい。

ドロステ効果。ドロステ・ココアのパッケージの女はドロステ・ココアを持っており、そのパッケージにはドロステ・ココアを持った女が…

モニター(およびモニターに映ったモニター)の位置関係はこうなる。

現代を0として一直線上に、モニタA側には未来、逆側のモニタBには過去の世界がそれぞれ2の倍数分ごとで並んでいる状況だ。

伏線として用いられる未来情報はもはや2分後からだけではない。モニターの中のモニターの中のモニターの…にはモニターの鏡合わせが維持されている時間まで(2n分後まで)の、n個の未来のスナップショットから情報がどんどん提示されるのだ。

モニターAに未来が映るのに比べると、モニターBに「2, 4, 6,… 2n分前」の過去が見えるのはなんの不思議もない(2分遅れて映っているだけなので)が、こちら側のモニターも作劇で巧妙に用いられる。状況説明のためにモニターBを見てもらったり、絶対見られたくない過去のやりとりがモニターBの向こうで再演されてしまったり……といった具合である。

キモは、見える未来がモニター前のごくごく一部の空間だけということ。断片的にちょびっとだけわかる未来の情報がちょうどいい塩梅で管理されているのだ。「ドロステのはてで僕ら」は、カチリとハマった時間のパズルとハイレベルなコメディの融合である。

映画としての「ドロステ」

「ドロステのはてで僕ら」は時間SF「サマータイムマシン・ブルース」や、エスパーもの「曲がれ!スプーン(冬のユリゲラー)」などで知られる劇団・ヨーロッパ企画が制作した初の劇場映画作品である。

ヨーロッパ企画の名前は、Vtuber月ノ美兎がファンであることを公言していて、それで知ったという人も多いのではないだろうか。

「ドロステ」の原案・脚本であるヨーロッパ企画主宰・上田誠ヨーロッパ企画)は森見登美彦作品のアニメ化「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」「ペンギン・ハイウェイ」の脚本や構成も手がけているので、その仕事で知っている人も多そうだ。「ドロステ」の監督は山口淳太(ヨーロッパ企画)で、この人はヨーロッパ企画関連の撮影や映像編集に携わってきた人のようである。

motion-gallery.net

上リンクは映画の配給のために行われたクラウドファンディングのものだ。説明中では「ドロステのはてで僕ら」は11分の短編映像作品「ハウリング」のリブートであることなどが語られている。クラウドは100万円の目標だったのが、開いて1日もたたず達成したとのこと。

キャストが劇団員なのもあって「ドロステ」の演技は映画というより演劇でみるものに近く、カメラがガシガシ動く演劇DVDみたいだなという印象を受けた。

こうして映画の撮影をしていたのが、演劇の公演が難しいコロナ蔓延の状況にうまくハマったのは厳しい中でも喜ばしいことのように思う。

考えてみると、「向かい合ったモニターを両方見せる」表現は演劇ではかなり難しい。演劇は客席と舞台で見る向きがあらかじめ方向付けられており、普通の方法では向かいあったモニタを同時に見る視点を取ることはできないからだ。また、モニタを客席側に向けるとモニタはつねに観客の監視に晒されることになる問題もある。「モニタには映っていた(はずだ)がカメラが撮らなかったので、観客には見えなかった」といった、映すか映さないかを使った情報提示の管理もできないわけである。いろいろな点で、「ドロステ」は映画だからできた挑戦だったように思う。

ここから先は連想したSFガジェットや構造についての突っ込んだ話なので、おたくのたわごとが好きな人だけどうぞ。

因果のループ

「ドロステ」ではハウリングのことを2分後の自分に教えられたから1階に降りるわけだが、そもそも1階に降りないと「2分前の自分に教える」ということがなかったはずで――と、卵が先か鶏が先か考えだすとこんがらがってしまう。これは決定論的タイムトラベルSFによく出てくる「因果のループ」と呼ばれるものだ。因果のループでは因果は循環しているものの、決して矛盾しているというわけではない(尾が首を導くだけで一貫はしている)。

因果のループについては、物理的に可能な時間旅行のパターンについてさまざまな思考実験が行われている。

因果のループ - Wikipedia

物理学者のアンドレイ・ロセフとイゴール・ノヴィコフによる1992年の論文は、 このような起源のないアイテムを「ジン」または「ジンニー」と呼んだ。この用語は、消えたときに痕跡を残さないと言われてるアラブ世界のジン(妖霊)にインスパイアされたもの。ロセフとノヴィコフは「ジン」という用語が再帰的な起源を持つ物体と情報の両方をカバーするものとし、前者を「第一種ジン」後者を「第二種ジン」と呼んだ。2人は時間を循環する物体は、過去に戻されるときは常に同一でなければならないことを指摘している。そうしなければ矛盾が生じる。熱力学の第二法則は対象が歴史を繰り返す過程でより状態が破損や劣化することを要求しており、完全に同一であるような物体は矛盾しているように思える。ロセフとノヴィコフは第二法則は「閉鎖系」のエントロピーの増加のみを要求しているため「ジン」は失われた損傷や劣化を取り戻すような方法でその環境と相互作用することができると主張した。彼らは第1種と第2種のジンの間に「厳密な違い」がないことを強調している。Krasnikovは、「ジン」「自給自足のループ」および「自己存在するオブジェクト」をあいまいにし、それらを「ライオン」または「ループまたは侵入しているオブジェクト」と呼んだ。

因果ループする物質/情報に「ジン」と名付けましたよ、という話。こういうトピックに「ジン」みたいな命名するの、好き

この手の因果のループは「ブートストラップ・パラドックス」 などの名前でも呼ばれる。「ブートストラップ」はブーツのつまみ皮のことで、「自分(靴のつまみ皮)で自分(靴)を引っ張り上げる」比喩から、自身によって自身を駆動する性質をもったものとして因果のループを命名しているわけである。

因果のループを簡単にモデル化した「ポルチンスキーのビリヤード」については琉球大学の前野昌弘@irobutsu先生がわかりやすい解説記事を書いている。おもしろいので一読をおすすめする。

irobutsu.a.la9.jp

ヨーロッパ企画の代表作の時間SF「サマータイムマシン・ブルース」は物体が因果のループを起こさないよう綺麗に作られている(第2種のジンしかいない)のだが、「タイムマシンの設計知識」というとんでもないものが因果のループをおこしていて、これどっから出てきたんだ?と思った記憶があった。15年後に描かれた、「ブルース」の15年後を描いた続編「サマータイムマシン・ワンスモア」ではこの点がどうにかうまいこと解決していて感心したようなおぼろげな記憶がある。15年後前に作った演劇の気になる点を15年後に伏線回収するのマジで何?

予言

因果のループを大仕掛けとした時間SFは数多くあるが、中でも単純かつ強烈なのがテッド・チャン「商人と錬金術師の門」だろう。

「商人と錬金術師の門」は、中世イスラームを舞台にした時間SFだ。ある錬金術師の店に〈歳月の門〉という「入口と出口が20年の時で隔てられた門」があり、その店を訪ねた商人が錬金術師から門にまつわる物語をいくつか聞き、後に自身も門をくぐって過去に向かう……という構成の物語で、語りの構造としては、商人が体験したことを教主(カリフ)に話す、という、アラビアンナイトを彷彿とさせる形式をとっている。

このSF短編のタイムマシンである〈歳月の門〉もいわゆる矛盾のない決定論的タイムトラベルもので、どんなに過去に介入しようとしてもできないのだが、商人はこの門から「過去は変えることはできないが、過去を訪ねることで思いがけない事実に出会うことはある。それで学んだり、赦されたりすることもある。過去とはそういうものだ」という教訓を得て、それを導く寓話の語りを行う。

私にはどうもこの「商人と錬金術師の門」の寓意は作中に設定された年代のイスラームでもいかにもありそうなものに思えて、このような物語は実際に中世イスラームに存在していてもおかしくないのでは? 精霊の力で過去に行く話とかないのか? と少し調べたのだが、どうも「時間を操って過去に行く」発想はかなり近代的なもののようで、どの文化圏でも過去に遡る神話や民話はほぼ存在しないようであった。

時間に座標や向きが与えられるまでは「過去に戻る」という発想自体が生まれなかったのかもしれない。

ということは、こういった因果のループのような話の類型は近代に入るまでなかったのかあ、と思っていると、Wikipediaの「因果のループ」の項目(上にリンクを貼った)に面白いものを見つけた。

因果のループは成就する予言という形で古代から存在していたのである。

オイディプスは「お前の子がお前を殺し、お前の妻との間に子をなすだろう」という予言を聞く。彼は予言を阻止する過程で父親を殺し、母親と結婚し子を作るという予言を知らぬ間に果たす。これは予言自体が彼の行動の原動力となってしまっている。

このような現象は心理学においても「予言の自己成就」として知られていて、血液型性格診断で「O型だからおおらか」と診断された人が自分から無意識のうちにおおらかな方に性格を寄せていってしまう、なんて例もあるようだ。

オイディプスのほかにもギリシャ神話のカッサンドラや、シェイクスピアの「マクベス」なども予言に振り回された結果として予言通りになってしまう構造になっている。「そうならないように頑張った結果、それが災いしてそうなってしまう」のは時間SFあるあるでもある。

時間SFと決定論

「商人と錬金術師の門」のような、過去を変えることのできないタイムトラベルや絶対に覆すことのできない予言の類は、ガジェットの構造上「どう行動したところで過去や未来はすべて決まっており変わることがない」という決定論的な世界観を導いてしまう。

この世界観はともすれば虚無感を生じるため、「決定論的であること」にどう向き合うかはこの手の時間SFの大きな課題のひとつでもあった。

「商人と錬金術師の門」のテッド・チャンはほか「予期される未来」「あなたの人生の物語」などでも決定論的世界を人間がどう受け止めうるか、自由意志と関連させてテーマのひとつとして書き続けている。

先に挙げたように「商人と錬金術師の門」では決定論運命として捉え、タイムトラベルは過去に赴くことで自らの運命を見つめなおす道具として用いられる。自作解題によると、イスラームの基本教義に「運命の受容」があるのでこの形の時間SFと相性がいいように考えたそうである。

「予期される未来」は逆に決定論の虚無感をネタにして、「人生は無意味!」という主張がガジェットで補強されてしまったら?という小品として仕上げているし、「あなたの人生の物語」ではわれわれの持つ逐次的意識ではない、時間によらない認識様式を用いて、決定論的世界をまったく別の価値観で捉えなおす試みを行っている。

「ドロステ」には一つだけ時空構造の大きなウソがあるのだが、そのウソは、決定論的世界観の虚無感と対峙するために構造をあえて破壊する意図のもののように思った。

演出の小ネタ

  • 「ドロステのはてで僕ら」は、カフェのマスターが画面手前のモニタをリモコンで切るところで終わる。物語の中核にあったガジェットの電源がオフにされて終幕、というのはかなりエモーショナルで好み。実はこれは「サマータイムマシン・ブルース/ワンスモア」でも用いられていた演出で、こちらではリモコンでエアコンを切るシーンがある。かすかに聞こえていたエアコンの駆動音がここでスッと消え、クライマックスの静寂がバシッと決まっていたのが印象的だった。また、「ドロステ」という映画で画面手前に向けて電源を切られるのを見せられると、我々もまたスクリーンというモニタを通して作品を見ていたのだなということを思い出さされる。

  • 「ドロステ効果」という語はヨーロッパ企画第36回公演「出てこようとしているトロンプルイユ」)内のセリフでも用いられている。こちらはパリの下町の画家が、絵画から出てこようとしている物や人のトロンプルイユ(だまし絵)を極めたあまり「自分も描かれたトロンプルイユなのではないか?」と自問し、メタ・レベルにまたがる絵を描くようになってしまう話。「絵の中に書いた世界で絵の中に書いた世界で絵の……」の無限連鎖がドロステ構造になっている。無限連鎖や因果のループはヨーロッパ企画が好んでよく用いているモチーフのように思う。

ヨーロッパ企画の他作品へのアクセス

ヨーロッパ企画の演劇を原作とした映画「サマータイムマシン・ブルース」や「曲がれ!スプーン」は配信サイトやDVDレンタルなどで容易に見ることができる。しかし、元となった公演(演劇)となると見るための難易度がちょっと上がる。

過去作品は劇場物販やオンラインのDVD販売で買うことができる(私もいくつか買った)のだが、配信サービスで見られるものがいくつかあるので、2020年7月現在の配信サービスの対応状況(主に本公演の作品について)を書いておこう。

TSUTAYA DISCAS

U-NEXT

どちらの配信サービスも1ヶ月の無料体験期間があるので、ヨーロッパ企画の演劇が気になった場合はとりあえず仮登録して見てザッと一気見してみてはいかがだろうか。個人的なおすすめは「サマータイムマシン・ブルース2005」、「【舞台】曲がれ!スプーン」、「あんなに優しかったゴーレム」あたり。

公演も最近は全国の劇場を巡ってやっているようなので、コロナ騒動がおさまって興行が行われるようになったらチェックして行ってみることを勧める。私は「サマータイムマシン・ブルース」「サマータイムマシン・ワンスモア」の公演にだけ行ったことがあるのだが、やっぱりリアルの演劇には録画ではどうしても得られない感覚があった。そういえばちょうどアフタートークのあった日で、抽選に当たってなんか巨大なポスターをもらったのだった。

部屋に貼ってみたクソでかいポスター

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アニメと主観:3D世界から2Dアニメ世界への射影について

アニメーションと2つの口

先日、アニメの口の表現に関するツイートが流れてきた。

ひとつのフレームの中に「輪郭の口」と「顔のパーツとして書かれた口」の2つが描かれているわけで、別々の視点から見た口の状態を同じ絵の中に書いたこれは「キュビズム」ではないか、と言っているわけだ。

実はアニメーションや漫画において、3D的なパースを基準と考えたとき目や口のパーツが実際の位置よりもカメラ寄りに描かれることは非常によくあることで、我々はこのような表現に日常的に接している。上のツイートのリプライでも次のような例が挙げられていた。

今回は、2Dアニメの世界はどのような点で3DCGを撮影したものと異なるのか、という話をする。

3Dで見たらどうなのか

先の口の例について、「これって3D的に考えたらおかしいよね」という指摘はまさにその通りで、じゃあこのカメラ寄りの口を実際に3Dで見たらどうなのよ、の疑問に対する回答が、バーチャルYoutuberスズキセシルによる次のデモ動画である。

スズキセシルは自分のモデルが「2.5Dである」と言っており、キャラクターを撮影するカメラの位置に応じて3Dモデルを変形(モーフィング)することで、「カメラに寄った口」を再現している。

どうだろうか。動画右、移動カメラ(モーフィングあり)から見た目と口の表現は上で挙げたような「アニメ的」なもので、スズキセシルのキャラクターデザインがアニメ的なのもあいまって、私にはそこまで不自然には感じられなかった。

一方で、動画左の正面からの固定カメラ(モーフィングなし)でこのときのモデルの変形を見ると、「横カメラから見てそこまで不自然でない顔」は正面から見るとえらいところまで口が移動しているのがわかる。2Dアニメの「目と口がカメラに寄る」現象は3D的なパースに対してかなりの嘘をついているのだ。

ではなぜこのような「パーツのカメラ寄せ」をしているのかというと、その背景には技術的な問題と表現上の技法としての理由があることが指摘されている。

技術的な問題では、アニメ制作のコストにおいて「輪郭はなるべく動かしたくないが、口は動かしたい」事情があるようだ。表情芝居をしたい以上口を動かす必要があるが、輪郭を動かすと顔という大きなパーツを動かさなければならない一方で、輪郭を止めて口だけ動かすのであればフレームのごく一部を変更するだけでいいので簡単、というわけである。「パーツ口」と別に「輪郭の口」が残ってしまったのは、輪郭は輪郭で横から見た形を反映していないと横顔のシルエットが変わって不自然に感じられるため、といった理由があるのだろう。

表現上の技法としての理由は、アニメでは特にアニメ塗りが行われるために、表情筋の微妙な動きを表現する顔の奥行き方向の「深さ」情報が抜けているぶん、キャラクターの表情において口や目などのパーツが現実以上に大きな役割を果たしているという事情である。表情表現ではデフォルメされたパーツを使うなどの誇張表現もよく行われるので、「パーツが見える部分にあること」は表情表現の微妙な描写やバリエーションの多様化に非常に有効なわけである。

ツイートではキュビズムとの関連性が示唆されているが、キュビズムという技法自体が、伝統的な遠近法から脱却して画家の主観的・直感的視点による描写を試みたものであることを考えると、印象的なパーツを視点側に寄せるこの技法の精神性は、キュビズムに非常に近しいと言えるだろう。

3D的視点と2D表現の差異が大きなものとしては、スネ夫の髪や鉄腕アトムの頭(どの角度から見ても同じシルエットになる)などもあるが、今回は特に「3Dを2Dとして撮ろうとしたときのズレ」に着目し、2D的な極端な誇張表現については立ち入らないことにする。

2Dアニメと3DCG

近年のアニメ制作現場では、コストの削減などを目的として、キャラクターやアイテムを3DCGでモデリングし、オブジェクトや影をセルシェーディングでセルアニメのように着色する「セルルック・アニメーション」と呼ばれる手法が多く用いられるようになってきた。

セルルックは「3DCGをいかにして2Dアニメのように見せるか」という技術なわけで、まさにこの記事の疑問である「2Dアニメの世界はどのような点で3DCGを撮影したものと異なるのか」への大きなヒントになる。

セルルック・アニメーションの制作工程で一般の2Dアニメーションと大きく異なるのは、一番はじめに主要キャラクターの3Dモデルを作ってしまう、という点だろう。一度モデルを作ってしまえばあとはモデルのリギング(モデルの骨を動かすこと)によって任意の動き・構図を撮影できるようになるため、一枚一枚書きおろす必要がある2Dアニメ制作に比べて金銭・工数・時間面でのコストダウンができるわけである。

「目や口のパーツをカメラ側に寄せる」スズキセシルのように、モデルの段階で特殊な操作をすることはあまりなされないものの、「最終的にセルルックとして(2Dアニメっぽく)撮影したときに自然になるよう」3Dモデルのデザイン段階でなされる工夫もあるようだ。

a-film-production-technique-seminar.com

セルルックCG特有なワークフローとしてまずモデリングの手法が特殊な点があげられます。セルルックの表現では、単にモデルをデザイン画に合わせるかたちで形状をつくるだけでは、望むようなレンダリング結果を得ることはできません。セルルックの表現ははセルシェーディングと輪郭線で構成されるため、狙った場所に輪郭線が描画されるように、モデリング段階からそれらを意識しながら形状を作成していく必要があります。

例えば、鼻筋に輪郭線を描画させるために極端に細く鼻をモデリングするといったことがあります。

ここでは例として「極端に細く鼻をモデリングする」という工夫が挙げられている。セルシェーディング(アニメ塗り)するため、2Dアニメーションにおいて輪郭は3DCGのときよりずっと重要というのがその理由である。

ここまででずっと挙げてきた「口や目のパーツをカメラ側に寄せる」2Dアニメ的な表現については、シーンの必要に応じて、キャラクターのモデリングではなくアニメーションを作る段階で調整して達成されるようだ。

www.pixivision.net

f:id:xcloche:20200706223435j:plain
© Quadrangle / BBKBRNK Partners(リンク先より引用)

でも、パーツの配置と言いましたがアニメっぽさを追求するためにアニメーションの作業では精密に作ったモデルの整合性を壊す勇気も大事です。

── 整合性を壊す……?

ええと、例えばこの表情(←画像左)はいかにもアニメらしい表情ですよね。でもこの顔、パーツ配置の整合性は全くないんです。この表情を正面から見ると、こんな崩れた顔(画像右→)になっちゃうんです。

3DCGの一つの武器は、正面からでも横からでも整合性のあるモデルを動かせることだけど、それだと時には手描きのセルアニメらしい非現実的ではあるが魅力のある表情を表現できない。だから、あえてその整合性という武器を捨てることもあります。それがセルアニメを追求するという行為かなと。(一部省略、修正)

2Dアニメに特徴的な「動きかた」

ここまでのアニメを3D的なパースで見たときの不整合は静止画像について言えるもので、「じゃあ動いたらどうなのよ」という話になるとまた違った側面が出てくる。これについて、「どういうときに人はセルルックアニメーションを見て3D感を感じるのか」を研究した北大の人の論文(研究発表)があった。

https://dl.acm.org/doi/abs/10.1145/3283289.3283300dl.acm.org

(「pdf」からで2pの概要が読める)

この論文では、「動画が3DCGっぽく見える」原因としては「depth(奥行き)方向への移動による物体のサイズの変化」と「フレームレート」が大きいと指摘している。

研究で3D感の定量評価が行っているが、これには人間の主観が必要なため、12人の被験者にビデオを見せ、「2Dアニメを1、3DCGを5としたらこの動画はどのくらいか」「3D感を1〜5で評価したらどの程度か」の二項目に回答してもらう、という形式で調査したようだ。

奥行き移動によるサイズ変化

まず「depth(奥行き)方向への移動による物体のサイズの変化」について。研究では、対照群のオリジナルのビデオでは普通の視野角の透視投影で表示しているところを、「シーンの奥行き方向の移動が大きい場合はオリジナルより視野角の小さな透視投影、小さいときは平行投影を使う」よう視野角を調整することで3D感が減らせたと報告している。

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ここで、透視投影は上図(左)のように距離に応じて物体のサイズが変わる遠近のある図法で、視野角が大きければ大きいほど遠近による見た目のサイズ差が大きくなる。上図(右)の平行投影では遠近によって見た目の大きさが変わらない。

オリジナルのビデオに対して行っている調整はどちらも遠近によるサイズ差を小さくするもので、 奥行き方向の変化による見た目のサイズ変化が少ない投影法を使ったほうが2Dアニメっぽく見えるというわけである。

ただし、「キャラクターが画面方向にパンチしたのに拳が大きくならない」ような投影法は興ざめだろう(この状況は、相当離れたところから望遠鏡でこっちにパンチしている人を見る視点に対応する)。そこでこの論文では、同じシーン内でも距離に応じて投影法を使い分け、視点に近い部分では奥行きによる大きさ変化があるが、遠くでは変化しないという「いいとこ取り」のハイブリッドな手法を提案している。

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実はこのハイブリッド投影法、よくよく考えてみると現代のセルルック・アニメーション制作で部分的には自然に採用されている。というのも、2Dの背景画の書割の前で3Dの登場人物を動かすのは、平行投影と透視投影の併用に他ならないからだ。

フレームレート調整

次に「フレームレート」について。こちらは筆者らがこの研究の前研究で詳しく行っていたことのようだが、参考文献で引かれていた彼らの先行研究がオンラインで確認できる状態になく、この論文内でも詳しくは述べられていなかった。

周辺資料などから推測したところでは、どうやら「3Dっぽい(奥行き方向の)運動があった場合、フレームレートを落としたほうが2Dアニメっぽく見える」ということのようである。

奥行き方向の運動については視点方向への平行運動(カメラ方向に歩いてきたり向こうに行ったりする運動、拡大縮小に対応)と回転運動(その場でくるくる回るような運動)が挙げられており、そのような運動があった場合フレームレートを落とす(コマを減らす)ほうが2Dアニメっぽくなるとのことのようだ。

感覚的な理解としては「奥行き方向にヌルヌル動いたら3Dっぽい」といったところだろうか。

奥行き方向の運動の中でも、平行運動より回転運動の方が3Dっぽさを感じさせやすいようで、レート調整でより多くのコマを落とす意義があるようだ。

余談だが、「回転運動は3D感がマシマシになっちゃう」現象に関係しているのかわからないが、興味深いことに何人かのアニメ関係者が「セルルック・アニメーションで回転をなるべく避けたい」趣旨の発言をしていた。

mantan-web.jp

そこで、南プロデューサーが気をつけたのが「3DCGアニメとなると、グルグルと動く映像を作りがちだけど、ビックリ映像のオンパレード!のようなものは避けた」ことだ。

こちらは「蒼き鋼のアルペジオ」のプロデューサーの発言。

けものフレンズ」BD6巻付録オフィシャルガイドブックの「よしざきおにいさん × たつきおにいさん」特別対談(!)にも次のようなやりとりがある。

吉崎:打ち合わせをはじめて何回かはまずは内容そっちのけで3Dに関するディスカッションをしました。3Dで出来る事出来ない事、やってない事やらないほうがいい事っていうのをまず先に徹底的に洗い出してから、お願いする初期プロットをどういう構成にするか、3Dアニメをやるにあたってやめてほしい事とか伝えて。具体的には無駄に派手なアクションとかやめてくれみたいな事ですね。ぐるぐる回したりとか。

たつき:ぐるぐるはですね、今のアニメの偉い人って作画出身の人が多いので、作画でできない事を3Dに求めちゃうんですよ。せっかくだから回そうとか。ネイティブで3Dから育ってきてる人って逆にそれがちょっとダサいっていうのもわかってるので、真っ当に作りたがるんですよね。でもまさにやりたい所を言ってくださったから、「そうなんですよ〜!」って前のめりになって(笑)

吉崎:俺のモデルを回さないとは何事だ! みたいに怒られるかと心配してた(笑)

感覚的に回転運動によって3D感が強調されてセルルックの「アニメーションっぽくなくなる」ことを「ダサい」と認識しているのかもしれないと思うとおもろいな〜と感じた。

逆に、3Dっぽい作画

こういったものとまさに対照的に思ったのが『かぐや様は告らせたい』第3話EDの「チカっとチカ千花っ♡」で、これは3Dではなく完全に作画で書かれている(ロトスコープといって、実写撮影したダンサーの動きをトレースしたものらしい)のだが、奥行き方向にガンガン動いており、実に3Dっぽい。

www.youtube.com

評価としては「ヌルヌル動いていてすごい!」といった声をよく見たが、「これはアニメの動きではない」と批判している人がいたのが印象的だったのを覚えている。

まとめ

「パーツが視点側に寄る」話で言えば、絵を描くのが楽だからといっても、表現の幅が大きいからといっても、「なぜ我々はこれらの表現をそこまで「不自然」に感じないのか」は依然として不思議である。この「自然に見える」というのはある程度は生得的なものなのか、こういった表現に慣れているからそう感じるだけなのかはとても気になる。いろんな文化圏の人に斜め顔などを書いてもらって、「パーツの位置が3D的パースからどれくらいズレるか」を比較したらおもしろいかもしれない。個人的には文化によらず多少視点側に寄る傾向があるような気がする。人間は印象に残ったものを大きく描きそうなので。人間が顔をどのように認識しているかにもつながる話のように思う。

3Dアニメとの比較全般としては、2Dアニメの形式に存在していた目に見えない制約がどんどん可視化されておもしろい。

コスト面からもセルルック技術は今後も増えていきそうで、北大の人の研究が視点のハイブリッドを提案しているように、その「見えない制約」をうまく定式化して変換に活かすようなアイデアにはなるほどなあと思う。今は過渡期なので、セルルックで3DCGを2Dアニメっぽく見せる技術が発展するのと、セルルックが増えて3D特有の動きに視聴者がだんだん違和感を感じなくなるのは両方あると思っていて、今後どうなるかも注目していきたい。