ループする因果:「ドロステのはてで僕ら」

ドロステのはてで僕ら

先日、映画「ドロステのはてで僕ら」を観た。これが非常におもしろかった。

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雑居ビルにあるカフェで起こった、SFめいた事象。
テレビとテレビが「時間的ハウリング」を引き起こし、2分前と2分後がつながった。
襲いかかる未来、抗えない整合性。
ドロステのはてで僕らは ――。

公式サイトの宣伝文にあるように、「ドロステのはてで僕ら」は「カフェにある2つのモニターが2分の時差を開けて繋がってしまった!」というすこし・ふしぎな現象が発生したカフェを舞台に、マスターや店員、客、近所の住民たちが、タイムテレビを利用しようとしたり逆に振り回されたりする70分間ワンカット(っぽい撮り方の)ドタバタ時間SFコメディ・カフェ映画である。

2020年7月現在劇場公開中なので、ぜひ足を運んでみることをおすすめする。

時空的ハウリング

メインのギミックである、2分の時差を開けて2つのモニターが繋がる時空的ハウリングとは何かというと、こんな感じである。

モニターAの画面には、モニターBの前にあるものが映る(スカイプ通話と同じ)。ただし、映るのは2分後のモニターB前である。モニターBはその逆で、2分前のモニタA前が映る。

冒頭のシーンはこんな感じ(うろ覚え)。

カフェの2階の自室に戻ったマスターは、部屋のどこかから声が聞こえてくるのに気づく。声の源はどうやらPCのモニター(モニターA)らしい。モニターには自分そっくりの男が映っていて、こちらに語りかけてくる――「おい! こっちこっち! 俺! 俺だよ! 2分後の俺。下のカフェに行って、このこと2分前の俺に教えてやれよ」

「2分後の自分」の指示にしたがったマスターは1階カフェのモニターB前に行き、2階にあるモニターAの前に座っている2分前の自分に語りかける。「おい! こっちこっち! 俺! 俺だよ!」――

こうして「見えてしまった未来と整合的にすすむ」映像がノンカットでずっと展開されるわけである。

モニターAから未来情報「2分後のモニターB前の光景」が伏線として提示され続け、2分ごしで回収され続けるのがこの「ドロステ」という作品である。

モニターの向こうには「なんでたった2分でこうなったんだ?」と思ってしまう光景が次々と映るのだが、物語の構造上、謎は少なくとも2分以内に回収される――この連続がメチャクチャ小気味いい。「カメラを止めるな!」の前半と後半が同時に展開され続ける感覚だろうか。

また、キービジュアルにあるように、モニターAとBは序盤ですぐ鏡合わせの位置に置かれる。時空ハウリングしたモニタを鏡合わせに置くとどうなるか。

こうなる。モニターAに2分後のモニターA(4分後のモニターBの前にあるものが映っている)が映る構造が繰り返されるわけである。

タイトルの「ドロステのはてで僕ら」の「ドロステ」は、相似的に繰り返される構図を指す言葉「ドロステ効果」からきたもので、映像の構図としてもおもしろい。

ドロステ効果。ドロステ・ココアのパッケージの女はドロステ・ココアを持っており、そのパッケージにはドロステ・ココアを持った女が…

モニター(およびモニターに映ったモニター)の位置関係はこうなる。

現代を0として一直線上に、モニタA側には未来、逆側のモニタBには過去の世界がそれぞれ2の倍数分ごとで並んでいる状況だ。

伏線として用いられる未来情報はもはや2分後からだけではない。モニターの中のモニターの中のモニターの…にはモニターの鏡合わせが維持されている時間まで(2n分後まで)の、n個の未来のスナップショットから情報がどんどん提示されるのだ。

モニターAに未来が映るのに比べると、モニターBに「2, 4, 6,… 2n分前」の過去が見えるのはなんの不思議もない(2分遅れて映っているだけなので)が、こちら側のモニターも作劇で巧妙に用いられる。状況説明のためにモニターBを見てもらったり、絶対見られたくない過去のやりとりがモニターBの向こうで再演されてしまったり……といった具合である。

キモは、見える未来がモニター前のごくごく一部の空間だけということ。断片的にちょびっとだけわかる未来の情報がちょうどいい塩梅で管理されているのだ。「ドロステのはてで僕ら」は、カチリとハマった時間のパズルとハイレベルなコメディの融合である。

映画としての「ドロステ」

「ドロステのはてで僕ら」は時間SF「サマータイムマシン・ブルース」や、エスパーもの「曲がれ!スプーン(冬のユリゲラー)」などで知られる劇団・ヨーロッパ企画が制作した初の劇場映画作品である。

ヨーロッパ企画の名前は、Vtuber月ノ美兎がファンであることを公言していて、それで知ったという人も多いのではないだろうか。

「ドロステ」の原案・脚本であるヨーロッパ企画主宰・上田誠ヨーロッパ企画)は森見登美彦作品のアニメ化「四畳半神話大系」「夜は短し歩けよ乙女」「ペンギン・ハイウェイ」の脚本や構成も手がけているので、その仕事で知っている人も多そうだ。「ドロステ」の監督は山口淳太(ヨーロッパ企画)で、この人はヨーロッパ企画関連の撮影や映像編集に携わってきた人のようである。

motion-gallery.net

上リンクは映画の配給のために行われたクラウドファンディングのものだ。説明中では「ドロステのはてで僕ら」は11分の短編映像作品「ハウリング」のリブートであることなどが語られている。クラウドは100万円の目標だったのが、開いて1日もたたず達成したとのこと。

キャストが劇団員なのもあって「ドロステ」の演技は映画というより演劇でみるものに近く、カメラがガシガシ動く演劇DVDみたいだなという印象を受けた。

こうして映画の撮影をしていたのが、演劇の公演が難しいコロナ蔓延の状況にうまくハマったのは厳しい中でも喜ばしいことのように思う。

考えてみると、「向かい合ったモニターを両方見せる」表現は演劇ではかなり難しい。演劇は客席と舞台で見る向きがあらかじめ方向付けられており、普通の方法では向かいあったモニタを同時に見る視点を取ることはできないからだ。また、モニタを客席側に向けるとモニタはつねに観客の監視に晒されることになる問題もある。「モニタには映っていた(はずだ)がカメラが撮らなかったので、観客には見えなかった」といった、映すか映さないかを使った情報提示の管理もできないわけである。いろいろな点で、「ドロステ」は映画だからできた挑戦だったように思う。

ここから先は連想したSFガジェットや構造についての突っ込んだ話なので、おたくのたわごとが好きな人だけどうぞ。

因果のループ

「ドロステ」ではハウリングのことを2分後の自分に教えられたから1階に降りるわけだが、そもそも1階に降りないと「2分前の自分に教える」ということがなかったはずで――と、卵が先か鶏が先か考えだすとこんがらがってしまう。これは決定論的タイムトラベルSFによく出てくる「因果のループ」と呼ばれるものだ。因果のループでは因果は循環しているものの、決して矛盾しているというわけではない(尾が首を導くだけで一貫はしている)。

因果のループについては、物理的に可能な時間旅行のパターンについてさまざまな思考実験が行われている。

因果のループ - Wikipedia

物理学者のアンドレイ・ロセフとイゴール・ノヴィコフによる1992年の論文は、 このような起源のないアイテムを「ジン」または「ジンニー」と呼んだ。この用語は、消えたときに痕跡を残さないと言われてるアラブ世界のジン(妖霊)にインスパイアされたもの。ロセフとノヴィコフは「ジン」という用語が再帰的な起源を持つ物体と情報の両方をカバーするものとし、前者を「第一種ジン」後者を「第二種ジン」と呼んだ。2人は時間を循環する物体は、過去に戻されるときは常に同一でなければならないことを指摘している。そうしなければ矛盾が生じる。熱力学の第二法則は対象が歴史を繰り返す過程でより状態が破損や劣化することを要求しており、完全に同一であるような物体は矛盾しているように思える。ロセフとノヴィコフは第二法則は「閉鎖系」のエントロピーの増加のみを要求しているため「ジン」は失われた損傷や劣化を取り戻すような方法でその環境と相互作用することができると主張した。彼らは第1種と第2種のジンの間に「厳密な違い」がないことを強調している。Krasnikovは、「ジン」「自給自足のループ」および「自己存在するオブジェクト」をあいまいにし、それらを「ライオン」または「ループまたは侵入しているオブジェクト」と呼んだ。

因果ループする物質/情報に「ジン」と名付けましたよ、という話。こういうトピックに「ジン」みたいな命名するの、好き

この手の因果のループは「ブートストラップ・パラドックス」 などの名前でも呼ばれる。「ブートストラップ」はブーツのつまみ皮のことで、「自分(靴のつまみ皮)で自分(靴)を引っ張り上げる」比喩から、自身によって自身を駆動する性質をもったものとして因果のループを命名しているわけである。

因果のループを簡単にモデル化した「ポルチンスキーのビリヤード」については琉球大学の前野昌弘@irobutsu先生がわかりやすい解説記事を書いている。おもしろいので一読をおすすめする。

irobutsu.a.la9.jp

ヨーロッパ企画の代表作の時間SF「サマータイムマシン・ブルース」は物体が因果のループを起こさないよう綺麗に作られている(第2種のジンしかいない)のだが、「タイムマシンの設計知識」というとんでもないものが因果のループをおこしていて、これどっから出てきたんだ?と思った記憶があった。15年後に描かれた、「ブルース」の15年後を描いた続編「サマータイムマシン・ワンスモア」ではこの点がどうにかうまいこと解決していて感心したようなおぼろげな記憶がある。15年後前に作った演劇の気になる点を15年後に伏線回収するのマジで何?

予言

因果のループを大仕掛けとした時間SFは数多くあるが、中でも単純かつ強烈なのがテッド・チャン「商人と錬金術師の門」だろう。

「商人と錬金術師の門」は、中世イスラームを舞台にした時間SFだ。ある錬金術師の店に〈歳月の門〉という「入口と出口が20年の時で隔てられた門」があり、その店を訪ねた商人が錬金術師から門にまつわる物語をいくつか聞き、後に自身も門をくぐって過去に向かう……という構成の物語で、語りの構造としては、商人が体験したことを教主(カリフ)に話す、という、アラビアンナイトを彷彿とさせる形式をとっている。

このSF短編のタイムマシンである〈歳月の門〉もいわゆる矛盾のない決定論的タイムトラベルもので、どんなに過去に介入しようとしてもできないのだが、商人はこの門から「過去は変えることはできないが、過去を訪ねることで思いがけない事実に出会うことはある。それで学んだり、赦されたりすることもある。過去とはそういうものだ」という教訓を得て、それを導く寓話の語りを行う。

私にはどうもこの「商人と錬金術師の門」の寓意は作中に設定された年代のイスラームでもいかにもありそうなものに思えて、このような物語は実際に中世イスラームに存在していてもおかしくないのでは? 精霊の力で過去に行く話とかないのか? と少し調べたのだが、どうも「時間を操って過去に行く」発想はかなり近代的なもののようで、どの文化圏でも過去に遡る神話や民話はほぼ存在しないようであった。

時間に座標や向きが与えられるまでは「過去に戻る」という発想自体が生まれなかったのかもしれない。

ということは、こういった因果のループのような話の類型は近代に入るまでなかったのかあ、と思っていると、Wikipediaの「因果のループ」の項目(上にリンクを貼った)に面白いものを見つけた。

因果のループは成就する予言という形で古代から存在していたのである。

オイディプスは「お前の子がお前を殺し、お前の妻との間に子をなすだろう」という予言を聞く。彼は予言を阻止する過程で父親を殺し、母親と結婚し子を作るという予言を知らぬ間に果たす。これは予言自体が彼の行動の原動力となってしまっている。

このような現象は心理学においても「予言の自己成就」として知られていて、血液型性格診断で「O型だからおおらか」と診断された人が自分から無意識のうちにおおらかな方に性格を寄せていってしまう、なんて例もあるようだ。

オイディプスのほかにもギリシャ神話のカッサンドラや、シェイクスピアの「マクベス」なども予言に振り回された結果として予言通りになってしまう構造になっている。「そうならないように頑張った結果、それが災いしてそうなってしまう」のは時間SFあるあるでもある。

時間SFと決定論

「商人と錬金術師の門」のような、過去を変えることのできないタイムトラベルや絶対に覆すことのできない予言の類は、ガジェットの構造上「どう行動したところで過去や未来はすべて決まっており変わることがない」という決定論的な世界観を導いてしまう。

この世界観はともすれば虚無感を生じるため、「決定論的であること」にどう向き合うかはこの手の時間SFの大きな課題のひとつでもあった。

「商人と錬金術師の門」のテッド・チャンはほか「予期される未来」「あなたの人生の物語」などでも決定論的世界を人間がどう受け止めうるか、自由意志と関連させてテーマのひとつとして書き続けている。

先に挙げたように「商人と錬金術師の門」では決定論運命として捉え、タイムトラベルは過去に赴くことで自らの運命を見つめなおす道具として用いられる。自作解題によると、イスラームの基本教義に「運命の受容」があるのでこの形の時間SFと相性がいいように考えたそうである。

「予期される未来」は逆に決定論の虚無感をネタにして、「人生は無意味!」という主張がガジェットで補強されてしまったら?という小品として仕上げているし、「あなたの人生の物語」ではわれわれの持つ逐次的意識ではない、時間によらない認識様式を用いて、決定論的世界をまったく別の価値観で捉えなおす試みを行っている。

「ドロステ」には一つだけ時空構造の大きなウソがあるのだが、そのウソは、決定論的世界観の虚無感と対峙するために構造をあえて破壊する意図のもののように思った。

演出の小ネタ

  • 「ドロステのはてで僕ら」は、カフェのマスターが画面手前のモニタをリモコンで切るところで終わる。物語の中核にあったガジェットの電源がオフにされて終幕、というのはかなりエモーショナルで好み。実はこれは「サマータイムマシン・ブルース/ワンスモア」でも用いられていた演出で、こちらではリモコンでエアコンを切るシーンがある。かすかに聞こえていたエアコンの駆動音がここでスッと消え、クライマックスの静寂がバシッと決まっていたのが印象的だった。また、「ドロステ」という映画で画面手前に向けて電源を切られるのを見せられると、我々もまたスクリーンというモニタを通して作品を見ていたのだなということを思い出さされる。

  • 「ドロステ効果」という語はヨーロッパ企画第36回公演「出てこようとしているトロンプルイユ」)内のセリフでも用いられている。こちらはパリの下町の画家が、絵画から出てこようとしている物や人のトロンプルイユ(だまし絵)を極めたあまり「自分も描かれたトロンプルイユなのではないか?」と自問し、メタ・レベルにまたがる絵を描くようになってしまう話。「絵の中に書いた世界で絵の中に書いた世界で絵の……」の無限連鎖がドロステ構造になっている。無限連鎖や因果のループはヨーロッパ企画が好んでよく用いているモチーフのように思う。

ヨーロッパ企画の他作品へのアクセス

ヨーロッパ企画の演劇を原作とした映画「サマータイムマシン・ブルース」や「曲がれ!スプーン」は配信サイトやDVDレンタルなどで容易に見ることができる。しかし、元となった公演(演劇)となると見るための難易度がちょっと上がる。

過去作品は劇場物販やオンラインのDVD販売で買うことができる(私もいくつか買った)のだが、配信サービスで見られるものがいくつかあるので、2020年7月現在の配信サービスの対応状況(主に本公演の作品について)を書いておこう。

TSUTAYA DISCAS

U-NEXT

どちらの配信サービスも1ヶ月の無料体験期間があるので、ヨーロッパ企画の演劇が気になった場合はとりあえず仮登録して見てザッと一気見してみてはいかがだろうか。個人的なおすすめは「サマータイムマシン・ブルース2005」、「【舞台】曲がれ!スプーン」、「あんなに優しかったゴーレム」あたり。

公演も最近は全国の劇場を巡ってやっているようなので、コロナ騒動がおさまって興行が行われるようになったらチェックして行ってみることを勧める。私は「サマータイムマシン・ブルース」「サマータイムマシン・ワンスモア」の公演にだけ行ったことがあるのだが、やっぱりリアルの演劇には録画ではどうしても得られない感覚があった。そういえばちょうどアフタートークのあった日で、抽選に当たってなんか巨大なポスターをもらったのだった。

部屋に貼ってみたクソでかいポスター

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