『Ever17』と『デイグラシアの羅針盤』

両作品の概要

『デイグラシアの羅針盤』は2015年に同人サークル「カタリスト」から発売されたWindows向けノベルゲームである。

内容を簡単に説明すると、序盤で主人公たちは海底で故障した潜水艇「SHEEPIII」に閉じ込められ、何とかサバイバルしながら救助を待つ、という感じで、その中で更なるアクシデントに見舞われたり、隠された真実が明らかになったりする。
作品外の話として少し他と毛色の違うことといえば、同人ならではと言えようか、カタリストが公式に『デイグラシアの羅針盤』は『Ever17 -the out of infinity-』のオマージュである、という旨の発言をしていることだ。

Ever17

ここで、オマージュ元の『Ever17 -the out of infinity-』(以下、Ever17)について簡単に紹介・おさらいしておこう。

Ever17というのは2002年にKIDから発売されたドリームキャストPS2向けのSFアドベンチャーゲームである。

物語の舞台は2017年、海中に建設された巨大水族館「LeMU」。
序盤でこの海中水族館に浸水事故が発生し、中に閉じ込められた主人公は地上との出入りが封じられてしまう。大筋は施設に残された人々と協力しながら主人公たち何とかサバイバルしながら救助を待つ、という感じで、その中で更なるアクシデントに見舞われたり、隠された真実が明らかになったりする。どこかで聞いたような話ですね。

このEver17、妙に設定が緻密で、たとえばレーザーで網膜に像を投射するRID(網膜走査ディスプレイ)が使われていたり、LeMUは飽和潜水方式(LeMUは海中にあるのだが、施設内の気圧を外の水圧と同程度にすることで強度を保っている)だったり、その気圧を高めるためにヘリウムを使っていたり(高分圧の酸素は有毒だし、高分圧の窒素は「窒素酔い」を引き起こすため)する。かつ、それらの小道具はガワだけのものではなく、過不足なく展開され、見事な手際で回収される。これには偏屈なSFオタクもニンマリするだろうことを保証する。

もちろん先に述べたものもこのゲームの大きな魅力であるが、Ever17に最も特徴的なのは物語の「視点」だろう。Ever17には序盤に選択肢

  • 「俺は——」

  • 「僕は——」

からどちらかを選ぶ、という象徴的なイベントがあり、このイベントの後、LeMU浸水事故はそこで選んだ視点「俺(倉成武)」または「僕(少年(記憶喪失で、名前がわからない))」で語られる、という構成になっている。
二つの視点は相互補完的のようで微妙に異なるものでもあり、両方の視点から事故を追ううちに物語の真相が明らかになっていく。

作品の緻密な設定やノベルゲームならではの大仕掛けなど、Ever17の評価は非常に高く、完全版・移植・翻訳・リメイクと数多くのバージョンが発売された。
一時はPSNでのダウンロード販売や、iOSAndroidでもプレイできる状態だったが、残念ながら開発元のKIDが倒産、ライセンスを受け継いだサイバーフロントも解散してしまい、今ではプレイできる環境はかなり限られてしまっている。
現在はMAGES.(志倉千代丸が会長を務める会社)がライセンスを管理しており、Windows版をMaginodriveのDL販売で買うのが楽で安い。ゲームとしてはかなりの大ボリュームで多少冗長と思える部分もあるが、間違いなく傑作である。ぜひともプレイをお勧めする。
http://maginodrive.jp/item/MGS013.html

デイグラシアの羅針盤

さて、本題の『デイグラシアの羅針盤』だが、Youtubeに文字がいっぱい出てくる予告編があるのでキーワードを見てみよう。
https://www.youtube.com/watch?v=CuYPmsPx2p4
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オープニング映像より。ワクワクしますね。これらのキーワードにピンときたらすぐ買おう。

潜水関連の話でえらくマニアックだったEver17と比べて、デイグラシアの羅針盤は生物(主に進化論)の話の比重が大きい。

Ever17との主な類似点(オマージュしたと思われる点)をあげるとすれば、表層的な部分としては

  • 海中の施設に数人の男女が閉じ込められ、通信途絶した状況でサバイバルする

  • 施設側が何らかの隠し事をしている

  • 病気が関係してくる

また、小ネタとしては

  • タツタサンド(Ever17では施設内にタツタサンド屋台が残されていたため、タツタサンドをやたら食べる。デイグラシアでも食べ物の話になったとき「タツタサンド」が出てくる)

  • 着ぐるみ(Ever17ではキツネザル「みゅみゅーん」、デイグラシアではマスコット「シロナガスペンギン」)

  • 暗闇での鬼ごっこ

といったところだろうか。
また、Ever17の「視点」を軸にした物語の構造とは大きく異なるものの、序盤に出てくる印象的な選択肢は「俺は——」「僕は——」と同様な強烈なものが提示される。

『デイグラシアの羅針盤』の最初の選択肢は、「主人公の氏名」を入力するものだ。

道具立てはかなり近いものの、展開されるシナリオは全然別かつEver17へのリスペクトが垣間見えるもので、遜色ないといっていい出来の傑作である。

次回はネタバレでいろいろ考えてみた記事を書く。

http://www.digiket.com/work/show/_data/ID=ITM0121587/
ここで売ってる。Amazonの業者は正規ではない転売業者とのこと。DL版を買って売り上げに貢献し、新作を作ってもらおう。

「あなたの人生の物語」のテキスト演出と、「メッセージ」の映像演出

先日アメリカに行く用事があって、帰りのアメリカン航空の機内で映画「メッセージ」(原題は「ARRIVAL」)を観た。国内でも映画館で観ていたので二回目ということになる。機内では特にやることもなかったので、暇に飽かせて一時停止と巻き戻しを繰り返しながら約4時間かけてねっとりと鑑賞した。

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言語学者は、外国人のコミュニケーションの翻訳を支援するために軍隊に募集されています。よかったですね。

映画「メッセージ」の原作は「あなたの人生の物語」という中編小説である。これはアメリカのSF作家テッド・チャンの同名の短編集『あなたの人生の物語』に収録されている。
粒ぞろいの作品集であるのに加えて、テッド・チャンは非常に寡作なので、現在ではこれ一冊を読むだけで「テッド・チャンはほとんど読んでる」と言えてお得(?)だ。ぜひ読んでほしい。

実のところ、映画館ではじめて観たときは「がんばってるけどハリウッド的な脚色が鼻につくし、まあ、こんなもんかな〜」とちょっとネガティブな感触を抱いていた。それで機内でなんとはなしに二回目を観て、冒頭の五分で涙ぐんでしまった自分にびっくりしたのだった。
2回目だったこと、時間をかけて鑑賞できたこと、字幕がなくて台詞と映像に集中できたことなどがあっていろいろな発見ができ、ぜひ感想文が書きたいナとなったので書くことにする。

続きは「メッセージ」と原作「あなたの人生の物語」のネタバレがあるので注意してね。

原作と映画の主な違い

いかにして原作「あなたの人生の物語」が「メッセージ」として映像化されたのか見るために、二つの作品の筋書きの上での大きな違いをおさらいしておこう。

  • 宇宙船
    原作:ヘプタポッドとのやりとりは船外でモニタ越しに行われる。
    映画:ヘプタポッドは人類を宇宙船内に招き入れて、ガラスごしにコミュニケーションを行う。

  • 認識様式の描写
    原作:物理学者チームによって、ヘプタポッドたちは「同時的認識様式」をしているのではないか、という仮説があがる。
    映画:ヘプタポッドにとって「時は流れるものではない」と描写される。

  • 軍部
    原作:あまり活動的でない。
    映画:過激派が爆弾をしかけたり戦車が出動したりと元気に活動。

  • メッセージ
    原作:これといって特別な「メッセージ」は提示されない。
    映画:12個の宇宙船によって12分割された「メッセージ」が送られる。

  • ヘプタポッドの死
    原作:ヘプタポッドが死ぬ展開はない。
    映画:過激派の爆弾によってアボットと名付けられた個体が「死の過程」になる。

  • ヘプタポッドの目的
    原作:何しに来たのかわからないまま帰ってしまう。
    映画:「3000年後に人類の力が必要になる」旨の発言があり、何らかの意図があるらしい。

  • 娘の名前
    原作:娘の名前は明示されず、ただ「あなた」と呼ばれる。
    映画:「HANNAH」という名前がつけられている。

  • 娘の死因
    原作:国立公園で崖から転落死する。
    映画:難病が原因で病死する。

映画化でなされたこれらの変更点をヒントに、
①「語り」の時制と被写界深度
②変分原理と対称性
③シーンの同時性
の三つの視点から映画「メッセージ」を読み解いていこう。

①「語り」の時制と被写界深度

原作「あなたの人生の物語」の語りにはある仕掛けがあって、物語は時間軸上のある一点(ムーンなんとか)を基点に、そこから過去の出来事は過去形、そこから未来のことは未来形または現在形で書かれている。

物語は、基点を描写した後に、過去の出来事を時系列順に回想し、最後に基点をもう一度描写する、という形式をとっており、その合間合間に時系列的にシャッフルされた未来のエピソードが挿入される。 未来について書かれた章の多くには、「I remember when you are fourteen ~」というようなふつうではちょっと考えにくい奇妙な文が含まれているなど、原書には時制のはっきりした言語ならではの仕掛けも見ることができるようである。

この過去と未来の時系列の変化は基本的に章立てによっても明示されており、章と章の間には二行の改行がなされている。

映画でも冒頭と最後には基点が描写され、原作と同じような構造で未来のエピソードが挿入される。

f:id:xcloche:20170610211047p:plain 基点となるカットの構図

しかし、時制は小説のように「語り手」がなければ存在できない。長ったらしいモノローグを使うかわりにヴィルヌーヴが用いた奇手が、フォーカスの活用だ。
映画「メッセージ」には、背景がぼやけて画面手前のルイーズにだけはっきりと焦点があった被写界深度が浅いカットが多用される。注意深く観察すると、この演出が用いられるのは過去と未来のカットが転換するポイントであるのがわかる。

ボカされた背景によってルイーズの主観が強くイメージされ、(超時間的な)ルイーズの主観を通して、時間軸上のさまざまなシーンが結合されるのである。

②変分原理と対称性

原作での変分原理を用いたヘプタポッドの認識様式に関する仮説は映画ではまるきり出てこない。原作での説明は次のようなものだ。

人類の、そしてヘプタポッドの祖先がはじめて意識のきらめきを得たとき、両者は同じ物理世界を知覚したが、知覚したものの解析の仕方は異なっていた。最終的に生じてきた世界観の差は、その相違の究極的結果だ。人類は逐次的認識様式を発達させ、一方ヘプタポッドは同時的認識様式を発達させた。われわれは事象をある順序で経験し、因果関係としてそれを知覚する。“それら”は、あらゆる事象を同時に経験し、その根源にひそむ目的を知覚する。最小化、最大化という目的を。

映画では彼らの認識によって「時間の門を開く」といった表現がなされていた。
ヴィルヌーヴは原作とは少し異なった解釈に基づく演出を導入している。それが対称性である。

「変分原理」は物理学の用語で、作用の時間積分の変分がゼロになるになることを要請するが、始点と終点について対称で、過去から未来について考えていた問題を未来から過去についての問題に交換しても選択される経路は同じになる。そういう意味で、この対称性は変分原理のひとつの側面を捉えていると言えるだろう。

これは必ずしも原作の「同時的認識様式」を意味するものではないが、「メッセージ」では「時間的な順方向と逆方向を区別しない」というふうに「同時的認識様式」が解釈されているように思われる。

映画「メッセージ」にはさまざまなシーンでこの始点と終点の対称性が強調されている。

最も象徴的なのは、娘の名前「HANNAH」だろう。この名前については、作中でも明示的に「H, A, N, N, A, H, 反対から読んでも、H, A, N, N, A, H」と、対称性が強調されるシーンがある。

①で示したように、映画のはじめと終わりに同じカットを用いているのも対称的である。加えて、このカットでは左右対称な構図が用いられている。

ヘプタポッドたちとのコミュニケーションのシーンでも対称形はあらわれており、横に長いガラスの向こう側とこちら側で、ヘプタポッド・人・文字・人・ヘプタポッドが整然と配置されるカットは何度も用いられている。

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一番ヤベェな〜となったカット。ヘプタポッドと人間の手が点対称に配置されている。

また、「メッセージ」は誕生と死も対称に描いている。

この描写は冒頭五分ほどの、ハンナとの思い出のシーンの中にある。ハンナが産まれたとき、ルイーズは看護師が抱えているハンナを腕に抱こうと "Come back to me, come back to me." という台詞を発する。その少し後のカットで、亡くなったハンナが病院のベッドに横たわっているシーン、ここでもルイーズは "Come back to me, come back to me." という台詞を発している。

対称性をもった名前の子どもについて、誕生と死に際して同じ台詞が用いられているのである。

考えてみれば、「死の過程(Death process)」という表現も奇妙である。一般的に死は一点的なイベントであって過程ではない。さまざまな文字とそれに対応する意味が映し出されるカットでは、「死の過程」ではなく「死」自体を意味する文字も表示されていたのも興味深い。

③シーンの同時性

さて、②では原作における同時的認識様式が、映画では時間の対称性という観点で捉えられていたという話を扱った。
この節では、それ以外の方法での同時的認識様式の演出について述べる。

はじめに確認したように、原作と映画では娘の死因が異なる。原作では転落死だったのが、映画では難病に変更されているのである。
この「転落死」という死因が原作においてどのような意味をもっていたのか考えてみよう。

この理由のヒントは原作の次の記述に見つけることができる。

あなたの幼児期を通じて、わたしたちはそんなふうな場面を数かぎりなく反復することになる。あなたの反抗的な気性を考えれば、あなたを守ろうとするわたしの努力がクライミングへの愛着を育んでしまうのだと信じてもいいような気がする。最初は児童公園のジャングルジム、つぎは近所の緑地帯に生えている木々、そしてクライミング・クラブの岸壁、最後は国立公園の断崖絶壁——

死因である転落と、娘の他の「転落」のイベントを並べて思い出すシーンによって、同時的な認識が演出されているのである。

ここで、ヴィルヌーヴは、似たイベントを一度に思い出すという方向性ではなく、まったく別の時間のシーンに視覚的な類似性を持たせることで同時的な感覚を演出した

映画の冒頭と最後に映る大きなガラスの窓は、ヘプタポッドの宇宙船内のガラス窓と対応するように描かれている。わかりやすいのが、ルイーズが外にいるゲーリーを呼ぶためにガラス板をコツコツ叩くカットだろう。このシーンは、ヘプタポッドがルイーズに警告するためにガラスを叩くカットと対応している。
また、娘のハンナが地面に触れて遊んでいるシーンがあるが、このときの指の動きはヘプタポッドの歩行に似たものになっている。

視覚的に似たイメージが異なる時間のカットに挿入され、別の時間軸の出来事がひとつに統合されるのである。

むすび

原作小説がテキストでやったら楽しいことをたくさん詰め込んでいたのに対して、映画も負けず劣らず映像と音でできることを持ってきていて、同じ主題であるとは言えないものの、結果的には見るべきところの多いいい映画になっていたのではないかと思う。
特にはじめの数分間は白眉で、一度観終わったあとで観るとくるものがある。物語の主題と絡んだ月並みな意見だが、結末を知った上でもう一度観てこそ、という部分があるように思う。観ましょう。

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11/11に公開はわざとか?

最後に、気になることメモ

  • 原作にはフィクションの人物が「パフォーマティヴ」と言うことによるメタフィクショナルな楽しみがあった。好きな表現だったのでなくなっていたのが残念だったが、映画は文字通り演技されるものなので、このシーンをスクリーンでやっていたらくどすぎたかもしれない。
  • カナリアの声が地球側なのに異様なまでに無機質で、ヘプタポッド側の音のように聞こえたのがよかった。
  • ②であげた点対称なカット、娘を失うルイーズとアボットを失うコステロ、ヘプタポッドのある目的のために来ているかのように聞こえる発言、ガラスを叩く動き、ヘプタポッドに似た指の動きなど、人間とヘプタポッドを並置しようとしているようにも思える演出が多かった。これについては十分な考察ができなかった。
  • 特異な文字を書く生物が手の形をしているのはハチャメチャにいい。

継承と反復の物語・「けものフレンズ」の三つの旅

けものフレンズ」に関する重大なネタバレを含みます。未履修の方はブラウザバックを強く推奨します。

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けものフレンズ」の中には三つの旅がある。

メインストーリーである「〈かばん〉とサーバルとボスの旅」、それを追いかける「アライグマとフェネックの旅」、そしてとうの昔に終わってしまった「ミライとサーバル(先代)とラッキーの旅」だ。

三つの旅に共通するアイテムのひとつが〈帽子〉〈羽根飾り〉である。これらはストーリーにおいて重要な役割を果たすと同時に、「けものフレンズ」という物語の構造を表象するものになっている。これらのものに注目しながら、三つの旅の足跡を追ってみよう。

本稿では、まず時系列に沿って
①ミライとサーバル(先代)とラッキーの旅
②〈かばん〉とサーバルとボスの旅
③アライグマとフェネックの旅
の順に旅の目的や概略を軽くおさらいした後、それぞれの旅の関係を論じ、「帽子と羽根飾り」や火、バスなどの道具立てがもつ象徴的な意味について考える。

①ミライとサーバル(先代)とラッキーの旅

帽子と羽根飾り:ミライが〈緑色の羽根飾り〉と〈赤色の羽根飾り〉の両方がついた〈帽子〉をかぶっている。
旅の目的:サンドスターの調査、パークの危機への対処

パークガイドのミライがサーバル(先代)、ラッキーとともに、「パークの危機」に立ち向かう旅。

最終話の観覧車のシーンで、ミライたち人間はセルリアンによるパークの危機への対処をあきらめて島外へ避難したことがわかる。
また、このシーンに

ミライ「ラッキー、留守をよろしくね」
ラッキー「マカセテ」

のやりとりがあり、この旅の記録者としてラッキービーストが随行しているらしいことがわかる。

旅の様子は作中で直接的に描写されることはなく、〈かばん〉たちが記録された場所にきたときにボスが再生する映像、という形をとっている。

②〈かばん〉とサーバルとボスの旅

帽子と羽根飾り:〈かばん〉が〈緑色の羽根飾り〉のついた〈帽子〉をかぶっている。第11話でアライさん一行から〈赤色の羽根飾り〉を受け取る。
旅の目的(前半):〈かばん〉が何の動物が調べるため。
旅の目的(後半):〈ヒトのなわばり〉をさがすため。

バンナでめざめた〈かばん〉がサーバルとともに自分の正体を明らかにするため図書館をめざす物語前半の旅と、自分がヒトであると知った〈かばん〉が自分の居場所である〈ヒトのなわばり〉をさがす物語後半の旅。
物語の本編。

③アライグマとフェネックの旅

帽子と羽根飾り:アライさんが〈赤色の羽根飾り〉を持っている。第11話で〈かばん〉に〈赤色の羽根飾り〉を渡す。
旅の目的:「帽子泥棒」をつかまえて帽子をとりかえすため。

バンナでアライさんが見つけた帽子を持って行った「帽子泥棒」をつかまえるための旅。前の二つの旅とちがってメンバーにヒトがおらず、フレンズのみで構成されている。

序盤ではED後のCパートなどでよく登場していたのが、後半になるにつれてAパートとBパートの間に入ったり、一回に二度登場したりするなど、〈かばん〉たちに近づきつつあることが番組の構成によっても暗示されている。

①→②の相似

〈かばん〉たちの旅はミライたちの旅によく相似している。

まずはメンバーについてみてみよう。

〈かばん〉はミライの髪の毛がサンドスターをうけて誕生したものである。
サーバルについては、第10話のロッジでサーバル(先代)の映像を見たときの反応
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「あれ、あれ……あれ、おかしいな、早起きしたからかな」

から、先代のサーバルが一度セルリアンに食べられて動物にもどった後、ふたたびサンドスターをうけてフレンズ化したものであると推測される。
ラッキービーストには複数個体が存在するが、最終話の描写をみると記録をすべて共有しているのではないようである。ミライたちの旅における「ラッキー」とボスは同一個体と考えてよいだろう。

このように、メンバーのそれぞれについてミライたちの旅から〈かばん〉の旅への連続性が存在する。

また、旅路についても、ボスはミライが映像を記録した場所にきたときに映像の再生をしていることを考えれば、〈かばん〉たちの辿った道筋は、どうやらミライたちのそれを反復していることがわかる。

そして、ミライの旅からその相似である〈かばん〉の旅への継承が、最終話の観覧車でミライの帽子が風に飛ばされることで行われる。
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注目したいのは、ミライたちの旅はパークからの避難というある種の失敗の旅であるということだ。「けものフレンズ」はある意味で、失敗の物語を継承した〈かばん〉たちが同じ旅路をすすんで、昔とは違った新たな結末を模索する、という構図をとっている。

②→③〈かばん〉たちの旅の視察団・アライグマとフェネック

アライグマたちは帽子をかぶった〈かばん〉を追いかけるルートをたどっており、結果的に、橋や高山のカフェ、平原、図書館などでのできごとをひとつひとつ確認することになる。やはりここでも旅の道筋は反復される。
これはいわば〈かばん〉の行動が本来の住民たるフレンズのみの視察団によって検分されるという構図であり、第11話での合流をもって、彼らは〈かばん〉のこれまでの行動に承認を与える。この承認は〈赤い羽根飾り〉の受け渡しによって象徴される。

ふたたび①→②の継承

帽子は〈赤い羽根飾り〉がもどって本来の形を取り戻すが、しかし、これがすぐに〈かばん〉の頭の上にもどることにはならない。
アライグマから返却された帽子はそれからしばらくボスの頭の上にのせられている。ふたたび〈かばん〉が帽子を戴くことになるのが、サンドスターが火山からあふれだす次のシーンである。

ボス「非常事態デス。タダチニ避難シテクダサイ」
かばん「ラッキーさん、今はそんな場合じゃあ」
ボス「ダメデス。オ客様ノ安全ヲ守ルノガ、パークガイドロボットノボクノ務メデス。タダチニ避難シテクダサイ。ココカラノ最短……」
かばん「ラッキーさん、ぼくはお客さんじゃないよ。ここまでみんなに、すごくすごく助けてもらったんです。パークに何かおきてるなら、みんなのためにできることを、(ボスの頭からとった帽子をかぶる)したい」
ボス「ワカッタヨ、カバン。危ナクナッタラ、必ズ逃ゲテネ」
ボス「カバンヲ、暫定パークガイドニ設定。権限ヲ付与」

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〈かばん〉たちの旅がミライたちの旅と相似であることは先ほど述べたが、ボスだけは両方の旅にまったく同じ個体が参加している。
ボスに載せられていた帽子をかぶることは、ミライからボスへと継承された「留守をよろしくね」を今度は〈かばん〉が引き継いだことの表象に他ならない。手続き上においてもボスによって〈かばん〉は「暫定パークガイドに設定」され、ミライからボスを経由した〈かばん〉への継承は完全なものとなる。

f:id:xcloche:20170425212252p:plain ボスの瞳にうつる「パークガイド」

帽子と二つの羽根飾りが揃った〈かばん〉は、ミライの意思を継ぎ、フレンズたちに承認され、ボスによる認証をうけて、パークガイドとしての性質を得ることになる。ここに三つの旅は合流する。

火のリレー

さて、旅同士のインタラクションはおいて、〈かばん〉たちの旅の道連れである、〈かばん〉、サーバル、ボスの関係にも着目してみよう。 ここにも強力な継承の構図がある。それが第11話から第12話にかけての火のリレーである。
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溶岩のセルリアンとの戦いで、〈かばん〉が松明をかかげて敵を引きつけることになる。松明をかかげる、という行為はさまざまなことを象徴する。自由の女神を想像した人も多いのではないだろうか。しかし、ここで考えるべきはそれよりも、聖火のリレーであろう。
第11話で松明に掲げられた後、次に火が出てくるのはサーバルが投げた火のついた紙飛行機である。
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そして、この紙飛行機が飛んでいく先は、ボスが乗る燃えさかる船だ。 f:id:xcloche:20170425212245p:plain

〈かばん〉からサーバル、ボスへと希望の火はリレーされ、強大な敵は打ち倒される。

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アンカーの朝日がのぼる

バスの旅

ここまで見てきた通り、「けものフレンズ」には無数の継承と反復の物語が折りたたまれているが、ここで、三つの旅をつなぐバスの話をして結びとしたい。

第2話で、〈かばん〉たちはバスの運転席と客席が川の両岸に離ればなれになって停められているのを発見する。
しかし、はじめに客席だけのバスを見たボスがフリーズしていたことからも、本来いっしょに運用されるこれら二つの車体が別々の場所にあるのは不自然である。

本編でこの二つの車体をわけて運用したのは、巨大なセルリアンをヘッドライトで誘導する作戦のときで、このときは機動力を得るためにわけたのであった。 溶岩のセルリアンは水につけると岩になって固まること、二つの車体を隔てた橋が落ちていることなどをあわせて考えると、ミライたちもセルリアンに対抗するために同じ理由でバスを切り離して運用し、橋を落として退治しようとしたのではないか、という仮説が立ち上がってくる。
最後は海に漕ぎ出すところまで含めて、①の旅と②の旅は何度も反復の構造をとるし、その内情は好対照をなしている。

また、バスを船にしたときも二つの車体は分かれることになる。最終回の〈かばん〉の船は運転席側のみで構成されている。後を追うサーバルの船の外見はジャパリバスの客車のものだが、本来これに動力はないはずである。この船を動かしているのは、駆動音と12.1話からして、どうも足こぎの「バスてき」のようだ。すると漕いでいるのはアライグマとフェネックに違いない。ここに、三つの物語の統合があり、やっぱりみんなで旅は続くし、海の向こうではきっと、ちょっと歳をとったミライさんの元気な姿を見ることができるだろう。
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