『Ever17』と『デイグラシアの羅針盤』

両作品の概要

『デイグラシアの羅針盤』は2015年に同人サークル「カタリスト」から発売されたWindows向けノベルゲームである。

内容を簡単に説明すると、序盤で主人公たちは海底で故障した潜水艇「SHEEPIII」に閉じ込められ、何とかサバイバルしながら救助を待つ、という感じで、その中で更なるアクシデントに見舞われたり、隠された真実が明らかになったりする。
作品外の話として少し他と毛色の違うことといえば、同人ならではと言えようか、カタリストが公式に『デイグラシアの羅針盤』は『Ever17 -the out of infinity-』のオマージュである、という旨の発言をしていることだ。

Ever17

ここで、オマージュ元の『Ever17 -the out of infinity-』(以下、Ever17)について簡単に紹介・おさらいしておこう。

Ever17というのは2002年にKIDから発売されたドリームキャストPS2向けのSFアドベンチャーゲームである。

物語の舞台は2017年、海中に建設された巨大水族館「LeMU」。
序盤でこの海中水族館に浸水事故が発生し、中に閉じ込められた主人公は地上との出入りが封じられてしまう。大筋は施設に残された人々と協力しながら主人公たち何とかサバイバルしながら救助を待つ、という感じで、その中で更なるアクシデントに見舞われたり、隠された真実が明らかになったりする。どこかで聞いたような話ですね。

このEver17、妙に設定が緻密で、たとえばレーザーで網膜に像を投射するRID(網膜走査ディスプレイ)が使われていたり、LeMUは飽和潜水方式(LeMUは海中にあるのだが、施設内の気圧を外の水圧と同程度にすることで強度を保っている)だったり、その気圧を高めるためにヘリウムを使っていたり(高分圧の酸素は有毒だし、高分圧の窒素は「窒素酔い」を引き起こすため)する。かつ、それらの小道具はガワだけのものではなく、過不足なく展開され、見事な手際で回収される。これには偏屈なSFオタクもニンマリするだろうことを保証する。

もちろん先に述べたものもこのゲームの大きな魅力であるが、Ever17に最も特徴的なのは物語の「視点」だろう。Ever17には序盤に選択肢

  • 「俺は——」

  • 「僕は——」

からどちらかを選ぶ、という象徴的なイベントがあり、このイベントの後、LeMU浸水事故はそこで選んだ視点「俺(倉成武)」または「僕(少年(記憶喪失で、名前がわからない))」で語られる、という構成になっている。
二つの視点は相互補完的のようで微妙に異なるものでもあり、両方の視点から事故を追ううちに物語の真相が明らかになっていく。

作品の緻密な設定やノベルゲームならではの大仕掛けなど、Ever17の評価は非常に高く、完全版・移植・翻訳・リメイクと数多くのバージョンが発売された。
一時はPSNでのダウンロード販売や、iOSAndroidでもプレイできる状態だったが、残念ながら開発元のKIDが倒産、ライセンスを受け継いだサイバーフロントも解散してしまい、今ではプレイできる環境はかなり限られてしまっている。
現在はMAGES.(志倉千代丸が会長を務める会社)がライセンスを管理しており、Windows版をMaginodriveのDL販売で買うのが楽で安い。ゲームとしてはかなりの大ボリュームで多少冗長と思える部分もあるが、間違いなく傑作である。ぜひともプレイをお勧めする。
http://maginodrive.jp/item/MGS013.html

デイグラシアの羅針盤

さて、本題の『デイグラシアの羅針盤』だが、Youtubeに文字がいっぱい出てくる予告編があるのでキーワードを見てみよう。
https://www.youtube.com/watch?v=CuYPmsPx2p4
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ワクワクしますね。これらのキーワードにピンときたらすぐ買おう。

潜水関連の話でえらくマニアックだったEver17と比べて、デイグラシアの羅針盤は生物(主に進化論)の話の比重が大きい。

Ever17との主な類似点(オマージュしたと思われる点)をあげるとすれば、表層的な部分としては

  • 海中の施設に数人の男女が閉じ込められ、通信途絶した状況でサバイバルする

  • 施設側が何らかの隠し事をしている

  • 病気が関係してくる

また、小ネタとしては

  • タツタサンド(Ever17では施設内にタツタサンド屋台が残されていたため、タツタサンドをやたら食べる。デイグラシアでも食べ物の話になったとき「タツタサンド」が出てくる)

  • 着ぐるみ(Ever17ではキツネザル「みゅみゅーん」、デイグラシアではマスコット「シロナガスペンギン」)

  • 暗闇での鬼ごっこ

といったところだろうか。
また、Ever17の「視点」を軸にした物語の構造とは大きく異なるものの、序盤に出てくる印象的な選択肢は「俺は——」「僕は——」と同様な強烈なものが提示される。

『デイグラシアの羅針盤』の最初の選択肢は、「主人公の氏名」を入力するものだ。

道具立てはかなり近いものの、展開されるシナリオは全然別かつEver17へのリスペクトが垣間見えるもので、遜色ないといっていい出来の傑作である。

次回はネタバレでいろいろ考えてみた記事を書く。

http://www.digiket.com/work/show/_data/ID=ITM0121587/
ここで売ってる。Amazonの業者は正規ではない転売業者とのこと。DL版を買って売り上げに貢献し、新作を作ってもらおう。

「あなたの人生の物語」のテキスト演出と、「メッセージ」の映像演出

先日アメリカに行く用事があって、帰りのアメリカン航空の機内で映画「メッセージ」(原題は「ARRIVAL」)を観た。国内でも映画館で観ていたので二回目ということになる。機内では特にやることもなかったので、暇に飽かせて一時停止と巻き戻しを繰り返しながら約4時間かけてねっとりと鑑賞した。

f:id:xcloche:20170610211514p:plain 言語学者は、外国人のコミュニケーションの翻訳を支援するために軍隊に募集されています。よかったですね。

映画「メッセージ」には「あなたの人生の物語」という原作の中編小説がある。これはアメリカのSF作家テッド・チャンの同名の短編集『あなたの人生の物語』に収録されている。
粒ぞろいの作品集であるのに加えて、テッド・チャンは非常に寡作なので、現在ではこれ一冊を読むだけで「テッド・チャンはほとんど読んでる」と言えてお得(?)である。ぜひ読んでほしい。

実のところ、映画館ではじめて観たときは「がんばってるけどハリウッド的な脚色が鼻につくし、まあ、こんなもんかな」とちょっとネガティブな感触を抱いていた。それで機内でなんとはなしに観た二回目の冒頭の五分で涙ぐんでしまって自分でびっくりしてしまったのだった。
時間をかけて鑑賞できたこと、字幕がなくて台詞と映像に集中できたことなどもあっていろいろ発見があり、ぜひ感想文が書きたいナとなったので書くことにする。

続きは「メッセージ」と原作「あなたの人生の物語」のネタバレがあるので注意してね。

原作と映画の主な違い

いかにして原作「あなたの人生の物語」が「メッセージ」として映像化されたのか見るために、二つの作品の筋書きの上での大きな違いをおさらいしておこう。

  • 宇宙船
    原作:ヘプタポッドとのやりとりは船外でモニタ越しに行われる。
    映画:ヘプタポッドは人類を宇宙船内に招き入れて、ガラスごしにコミュニケーションを行う。

  • 認識様式の描写
    原作:物理学者チームによって、ヘプタポッドたちは「同時的認識様式」をしているのではないか、という仮説があがる。
    映画:ヘプタポッドにとって「時は流れるものではない」と描写される。

  • 軍部
    原作:あまり活動的でない。
    映画:過激派が爆弾をしかけたり戦車が出動したりと元気に活動。

  • メッセージ
    原作:これといって特別な「メッセージ」は提示されない。
    映画:12個の宇宙船によって12分割された「メッセージ」が送られる。

  • ヘプタポッドの死
    原作:ヘプタポッドが死ぬ展開はない。
    映画:過激派の爆弾によってアボットと名付けられた個体が「死の過程」になる。

  • ヘプタポッドの目的
    原作:何しに来たのかわからないまま帰ってしまう。
    映画:「3000年後に人類の力が必要になる」旨の発言があり、何らかの意図があるらしい。

  • 娘の名前
    原作:娘の名前は明示されず、ただ「あなた」と呼ばれる。
    映画:「HANNAH」という名前がつけられている。

  • 娘の死因
    原作:国立公園で崖から転落死する。
    映画:難病が原因で病死する。

映画化でなされたこれらの変更点をヒントに、
①「語り」の時制と被写界深度
②変分原理と対称性
③シーンの同時性
の三つの視点から映画「メッセージ」を読み解いていこう。

①「語り」の時制と被写界深度

原作「あなたの人生の物語」の語りにはある仕掛けがあって、物語は時間軸上のある一点(ムーンなんとか)を基点に、そこから過去の出来事は過去形、そこから未来のことは未来形または現在形で書かれている。

物語は、基点を描写した後に、過去の出来事を時系列順に回想し、最後に基点をもう一度描写する、という形式をとっており、その合間合間に時系列的にシャッフルされた未来のエピソードが挿入される。 未来について書かれた章の多くには、「I remember when you are fourteen ~」というようなふつうではちょっと考えにくい奇妙な文が含まれているなど、原書には時制のはっきりした言語ならではの仕掛けも見ることができるようである。

この過去と未来の時系列の変化は基本的に章立てによっても明示されており、章と章の間には二行の改行がなされている。

映画でも冒頭と最後には基点が描写され、原作と同じような構造で未来のエピソードが挿入される。

f:id:xcloche:20170610211047p:plain 基点となるカットの構図

しかし、時制は小説のように「語り手」がなければ存在できない。長ったらしいモノローグを使うかわりにヴィルヌーヴが用いた奇手が、フォーカスの活用だ。
映画「メッセージ」には、背景がぼやけて画面手前のルイーズにだけはっきりと焦点があった被写界深度が浅いカットが多用される。注意深く観察すると、この演出が用いられるのは過去と未来のカットが転換するポイントであるのがわかる。

ボカされた背景によってルイーズの主観が強くイメージされ、(超時間的な)ルイーズの主観を通して、時間軸上のさまざまなシーンが結合されるのである。

②変分原理と対称性

原作での変分原理を用いたヘプタポッドの認識様式に関する仮説は映画ではまるきり出てこない。原作での説明は次のようなものだ。

人類の、そしてヘプタポッドの祖先がはじめて意識のきらめきを得たとき、両者は同じ物理世界を知覚したが、知覚したものの解析の仕方は異なっていた。最終的に生じてきた世界観の差は、その相違の究極的結果だ。人類は逐次的認識様式を発達させ、一方ヘプタポッドは同時的認識様式を発達させた。われわれは事象をある順序で経験し、因果関係としてそれを知覚する。“それら”は、あらゆる事象を同時に経験し、その根源にひそむ目的を知覚する。最小化、最大化という目的を。

映画では彼らの認識によって「時間の門を開く」といった表現がなされていた。
ヴィルヌーヴは原作とは少し異なった解釈に基づく演出を導入している。それが対称性である。

「変分原理」は物理学の用語で、作用の時間積分の変分がゼロになるになることを要請するが、始点と終点について対称で、過去から未来について考えていた問題を未来から過去についての問題に交換しても選択される経路は同じになる。そういう意味で、この対称性は変分原理のひとつの側面を捉えていると言えるだろう。

これは必ずしも原作の「同時的認識様式」を意味するものではないが、「メッセージ」では「時間的な順方向と逆方向を区別しない」というふうに「同時的認識様式」が解釈されているように思われる。

映画「メッセージ」にはさまざまなシーンでこの始点と終点の対称性が強調されている。

最も象徴的なのは、娘の名前「HANNAH」だろう。この名前については、作中でも明示的に「H, A, N, N, A, H, 反対から読んでも、H, A, N, N, A, H」と、対称性が強調されるシーンがある。

①で示したように、映画のはじめと終わりに同じカットを用いているのも対称的である。加えて、このカットでは左右対称な構図が用いられている。

ヘプタポッドたちとのコミュニケーションのシーンでも対称形はあらわれており、横に長いガラスの向こう側とこちら側で、ヘプタポッド・人・文字・人・ヘプタポッドが整然と配置されるカットは何度も用いられている。

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一番ヤベェな〜となったカット。ヘプタポッドと人間の手が点対称に配置されている。

また、「メッセージ」は誕生と死も対称に描いている。

この描写は冒頭五分ほどの、ハンナとの思い出のシーンの中にある。ハンナが産まれたとき、ルイーズは看護師が抱えているハンナを腕に抱こうと “Come back to me, come back to me.” という台詞を発する。その少し後のカットで、亡くなったハンナが病院のベッドに横たわっているシーン、ここでもルイーズは “Come back to me, come back to me.” という台詞を発している。

対称性をもった名前の子どもについて、誕生と死に際して同じ台詞が用いられているのである。

考えてみれば、「死の過程(Death process)」という表現も奇妙である。一般的に死は一点的なイベントであって過程ではない。さまざまな文字とそれに対応する意味が映し出されるカットでは、「死の過程」ではなく「死」自体を意味する文字も表示されていたのも興味深い。

③シーンの同時性

さて、②では原作における同時的認識様式が、映画では時間の対称性という観点で捉えられていたという話を扱った。
この節では、それ以外の方法での同時的認識様式の演出について述べる。

はじめに確認したように、原作と映画では娘の死因が異なる。原作では転落死だったのが、映画では難病に変更されているのである。
この「転落死」という死因が原作においてどのような意味をもっていたのか考えてみよう。

この理由のヒントは原作の次の記述に見つけることができる。

あなたの幼児期を通じて、わたしたちはそんなふうな場面を数かぎりなく反復することになる。あなたの反抗的な気性を考えれば、あなたを守ろうとするわたしの努力がクライミングへの愛着を育んでしまうのだと信じてもいいような気がする。最初は児童公園のジャングルジム、つぎは近所の緑地帯に生えている木々、そしてクライミング・クラブの岸壁、最後は国立公園の断崖絶壁——

死因である転落と、娘の他の「転落」のイベントを並べて思い出すシーンによって、同時的な認識が演出されているのである。

ここで、ヴィルヌーヴは、似たイベントを一度に思い出すという方向性ではなく、まったく別の時間のシーンに視覚的な類似性を持たせることで同時的な感覚を演出した

映画の冒頭と最後に映る大きなガラスの窓は、ヘプタポッドの宇宙船内のガラス窓と対応するように描かれている。わかりやすいのが、ルイーズが外にいるゲーリーを呼ぶためにガラス板をコツコツ叩くカットだろう。このシーンは、ヘプタポッドがルイーズに警告するためにガラスを叩くカットと対応している。
また、娘のハンナが地面に触れて遊んでいるシーンがあるが、このときの指の動きはヘプタポッドの歩行に似たものになっている。

視覚的に似たイメージが異なる時間のカットに挿入され、別の時間軸の出来事がひとつに統合されるのである。

むすび

原作小説がテキストでやったら楽しいことをたくさん詰め込んでいたのに対して、映画も負けず劣らず映像と音でできることを持ってきていて、同じ主題であるとは言えないものの、結果的には見るべきところの多いいい映画になっていたのではないかと思う。
特にはじめの数分間は白眉で、一度観終わったあとで観るとくるものがある。物語の主題と絡んだ月並みな意見だが、結末を知った上でもう一度観てこそ、という部分があるように思う。観ましょう。

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11/11に公開はわざとか?

最後に、気になることメモ

  • 原作にはフィクションの人物が「パフォーマティヴ」と言うことによるメタフィクショナルな楽しみがあった。好きな表現だったのでなくなっていたのが残念だったが、映画は文字通り演技されるものなので、このシーンをスクリーンでやっていたらくどすぎたかもしれない。
  • カナリアの声が地球側なのに異様なまでに無機質で、ヘプタポッド側の音のように聞こえたのがよかった。
  • ②であげた点対称なカット、娘を失うルイーズとアボットを失うコステロ、ヘプタポッドのある目的のために来ているかのように聞こえる発言、ガラスを叩く動き、ヘプタポッドに似た指の動きなど、人間とヘプタポッドを並置しようとしているようにも思える演出が多かった。これについては十分な考察ができなかった。
  • 特異な文字を書く生物が手の形をしているのはハチャメチャにいい。

継承と反復の物語・「けものフレンズ」の三つの旅

けものフレンズ」に関する重大なネタバレを含みます。未履修の方はブラウザバックを強く推奨します。

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けものフレンズ」の中には三つの旅がある。

メインストーリーである「〈かばん〉とサーバルとボスの旅」、それを追いかける「アライグマとフェネックの旅」、そしてとうの昔に終わってしまった「ミライとサーバル(先代)とラッキーの旅」だ。

三つの旅に共通するアイテムのひとつが〈帽子〉〈羽根飾り〉である。これらはストーリーにおいて重要な役割を果たすと同時に、「けものフレンズ」という物語の構造を表象するものになっている。これらのものに注目しながら、三つの旅の足跡を追ってみよう。

本稿では、まず時系列に沿って
①ミライとサーバル(先代)とラッキーの旅
②〈かばん〉とサーバルとボスの旅
③アライグマとフェネックの旅
の順に旅の目的や概略を軽くおさらいした後、それぞれの旅の関係を論じ、「帽子と羽根飾り」や火、バスなどの道具立てがもつ象徴的な意味について考える。

①ミライとサーバル(先代)とラッキーの旅

帽子と羽根飾り:ミライが〈緑色の羽根飾り〉と〈赤色の羽根飾り〉の両方がついた〈帽子〉をかぶっている。
旅の目的:サンドスターの調査、パークの危機への対処

パークガイドのミライがサーバル(先代)、ラッキーとともに、「パークの危機」に立ち向かう旅。

最終話の観覧車のシーンで、ミライたち人間はセルリアンによるパークの危機への対処をあきらめて島外へ避難したことがわかる。
また、このシーンに

ミライ「ラッキー、留守をよろしくね」
ラッキー「マカセテ」

のやりとりがあり、この旅の記録者としてラッキービーストが随行しているらしいことがわかる。

旅の様子は作中で直接的に描写されることはなく、〈かばん〉たちが記録された場所にきたときにボスが再生する映像、という形をとっている。

②〈かばん〉とサーバルとボスの旅

帽子と羽根飾り:〈かばん〉が〈緑色の羽根飾り〉のついた〈帽子〉をかぶっている。第11話でアライさん一行から〈赤色の羽根飾り〉を受け取る。
旅の目的(前半):〈かばん〉が何の動物が調べるため。
旅の目的(後半):〈ヒトのなわばり〉をさがすため。

バンナでめざめた〈かばん〉がサーバルとともに自分の正体を明らかにするため図書館をめざす物語前半の旅と、自分がヒトであると知った〈かばん〉が自分の居場所である〈ヒトのなわばり〉をさがす物語後半の旅。
物語の本編。

③アライグマとフェネックの旅

帽子と羽根飾り:アライさんが〈赤色の羽根飾り〉を持っている。第11話で〈かばん〉に〈赤色の羽根飾り〉を渡す。
旅の目的:「帽子泥棒」をつかまえて帽子をとりかえすため。

バンナでアライさんが見つけた帽子を持って行った「帽子泥棒」をつかまえるための旅。前の二つの旅とちがってメンバーにヒトがおらず、フレンズのみで構成されている。

序盤ではED後のCパートなどでよく登場していたのが、後半になるにつれてAパートとBパートの間に入ったり、一回に二度登場したりするなど、〈かばん〉たちに近づきつつあることが番組の構成によっても暗示されている。

①→②の相似

〈かばん〉たちの旅はミライたちの旅によく相似している。

まずはメンバーについてみてみよう。

〈かばん〉はミライの髪の毛がサンドスターをうけて誕生したものである。
サーバルについては、第10話のロッジでサーバル(先代)の映像を見たときの反応
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「あれ、あれ……あれ、おかしいな、早起きしたからかな」

から、先代のサーバルが一度セルリアンに食べられて動物にもどった後、ふたたびサンドスターをうけてフレンズ化したものであると推測される。
ラッキービーストには複数個体が存在するが、最終話の描写をみると記録をすべて共有しているのではないようである。ミライたちの旅における「ラッキー」とボスは同一個体と考えてよいだろう。

このように、メンバーのそれぞれについてミライたちの旅から〈かばん〉の旅への連続性が存在する。

また、旅路についても、ボスはミライが映像を記録した場所にきたときに映像の再生をしていることを考えれば、〈かばん〉たちの辿った道筋は、どうやらミライたちのそれを反復していることがわかる。

そして、ミライの旅からその相似である〈かばん〉の旅への継承が、最終話の観覧車でミライの帽子が風に飛ばされることで行われる。
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注目したいのは、ミライたちの旅はパークからの避難というある種の失敗の旅であるということだ。「けものフレンズ」はある意味で、失敗の物語を継承した〈かばん〉たちが同じ旅路をすすんで、昔とは違った新たな結末を模索する、という構図をとっている。

②→③〈かばん〉たちの旅の視察団・アライグマとフェネック

アライグマたちは帽子をかぶった〈かばん〉を追いかけるルートをたどっており、結果的に、橋や高山のカフェ、平原、図書館などでのできごとをひとつひとつ確認することになる。やはりここでも旅の道筋は反復される。
これはいわば〈かばん〉の行動が本来の住民たるフレンズのみの視察団によって検分されるという構図であり、第11話での合流をもって、彼らは〈かばん〉のこれまでの行動に承認を与える。この承認は〈赤い羽根飾り〉の受け渡しによって象徴される。

ふたたび①→②の継承

帽子は〈赤い羽根飾り〉がもどって本来の形を取り戻すが、しかし、これがすぐに〈かばん〉の頭の上にもどることにはならない。
アライグマから返却された帽子はそれからしばらくボスの頭の上にのせられている。ふたたび〈かばん〉が帽子を戴くことになるのが、サンドスターが火山からあふれだす次のシーンである。

ボス「非常事態デス。タダチニ避難シテクダサイ」
かばん「ラッキーさん、今はそんな場合じゃあ」
ボス「ダメデス。オ客様ノ安全ヲ守ルノガ、パークガイドロボットノボクノ務メデス。タダチニ避難シテクダサイ。ココカラノ最短……」
かばん「ラッキーさん、ぼくはお客さんじゃないよ。ここまでみんなに、すごくすごく助けてもらったんです。パークに何かおきてるなら、みんなのためにできることを、(ボスの頭からとった帽子をかぶる)したい」
ボス「ワカッタヨ、カバン。危ナクナッタラ、必ズ逃ゲテネ」
ボス「カバンヲ、暫定パークガイドニ設定。権限ヲ付与」

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〈かばん〉たちの旅がミライたちの旅と相似であることは先ほど述べたが、ボスだけは両方の旅にまったく同じ個体が参加している。
ボスに載せられていた帽子をかぶることは、ミライからボスへと継承された「留守をよろしくね」を今度は〈かばん〉が引き継いだことの表象に他ならない。手続き上においてもボスによって〈かばん〉は「暫定パークガイドに設定」され、ミライからボスを経由した〈かばん〉への継承は完全なものとなる。

f:id:xcloche:20170425212252p:plain ボスの瞳にうつる「パークガイド」

帽子と二つの羽根飾りが揃った〈かばん〉は、ミライの意思を継ぎ、フレンズたちに承認され、ボスによる認証をうけて、パークガイドとしての性質を得ることになる。ここに三つの旅は合流する。

火のリレー

さて、旅同士のインタラクションはおいて、〈かばん〉たちの旅の道連れである、〈かばん〉、サーバル、ボスの関係にも着目してみよう。 ここにも強力な継承の構図がある。それが第11話から第12話にかけての火のリレーである。
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溶岩のセルリアンとの戦いで、〈かばん〉が松明をかかげて敵を引きつけることになる。松明をかかげる、という行為はさまざまなことを象徴する。自由の女神を想像した人も多いのではないだろうか。しかし、ここで考えるべきはそれよりも、聖火のリレーであろう。
第11話で松明に掲げられた後、次に火が出てくるのはサーバルが投げた火のついた紙飛行機である。
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そして、この紙飛行機が飛んでいく先は、ボスが乗る燃えさかる船だ。 f:id:xcloche:20170425212245p:plain

〈かばん〉からサーバル、ボスへと希望の火はリレーされ、強大な敵は打ち倒される。

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アンカーの朝日がのぼる

バスの旅

ここまで見てきた通り、「けものフレンズ」には無数の継承と反復の物語が折りたたまれているが、ここで、三つの旅をつなぐバスの話をして結びとしたい。

第2話で、〈かばん〉たちはバスの運転席と客席が川の両岸に離ればなれになって停められているのを発見する。
しかし、はじめに客席だけのバスを見たボスがフリーズしていたことからも、本来いっしょに運用されるこれら二つの車体が別々の場所にあるのは不自然である。

本編でこの二つの車体をわけて運用したのは、巨大なセルリアンをヘッドライトで誘導する作戦のときで、このときは機動力を得るためにわけたのであった。 溶岩のセルリアンは水につけると岩になって固まること、二つの車体を隔てた橋が落ちていることなどをあわせて考えると、ミライたちもセルリアンに対抗するために同じ理由でバスを切り離して運用し、橋を落として退治しようとしたのではないか、という仮説が立ち上がってくる。
最後は海に漕ぎ出すところまで含めて、①の旅と②の旅は何度も反復の構造をとるし、その内情は好対照をなしている。

また、バスを船にしたときも二つの車体は分かれることになる。最終回の〈かばん〉の船は運転席側のみで構成されている。後を追うサーバルの船の外見はジャパリバスの客車のものだが、本来これに動力はないはずである。この船を動かしているのは、駆動音と12.1話からして、どうも足こぎの「バスてき」のようだ。すると漕いでいるのはアライグマとフェネックに違いない。ここに、三つの物語の統合があり、やっぱりみんなで旅は続くし、海の向こうではきっと、ちょっと歳をとったミライさんの元気な姿を見ることができるだろう。
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「フレンズ」、けものとヒトの双方に寄り添うもの

2017年3月28日、一大ブームを引きおこした「けものフレンズ」が最終回を迎えた。

タイトル「けものフレンズ」とは何だったのか、作中で提示される「ヒトのなわばり」とはいったいどこなのか。シリーズ全体の構成を読み解きながら探っていきたい。

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ジャンプ!

*ネタバレがあるので、未視聴者はブラウザバックを強く推奨する。

 

人類史としての「けものフレンズ」前半

けものフレンズ」第一話で示されたトーリー前半部の目的はこうだ。

「〈サバンナ〉で目覚めた〈かばん〉は、自分がなんの動物なのかわからない。〈かばん〉は、自分の正体を調べるため、〈図書館〉を目指すことになる」

まずはこの構図について考えてみよう。

人類発祥の地はどこだろうか。〈サバンナ〉である。

〈図書館〉とはなんだろうか。人類知の集積、人類の積み上げてきた歴史の象徴といえるだろう。

では、〈サバンナ〉で生まれた〈ヒト〉が、〈図書館〉を目指す物語は? ヒトの歴史、人類史そのものだろう。

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ヒトはサバンナで生まれた。

第一話でサバンナを出発、第七話で図書館に到着するまでの物語を第一部として、これを「人類史」という視点から、一話ずつ詳しくみていこう。

 

第一話 「さばんなちほー」 動物としてのヒト

第一話については、まだ三話放送前の段階で骨しゃぶり氏(id:honeshabri)によって書かれた秀逸な記事があるので、ぜひこちらに目を通していただきたい。

http://honeshabri.hatenablog.com/entry/kemono-friends

要約すると、第一話には

  • (長距離を移動しても疲れない)持久力
  • (紙飛行機を作る)手先の器用さ
  • (紙飛行機を投げる)投擲能力

といった「動物としてのヒトの特徴」が示されている、というものだ。

けものフレンズ」は、ヒトの歴史を描くうえで、はじめに動物としてのヒトとけものの分岐点、生物としてのつくりの違いを示している。

 

第二話 「じゃんぐるちほー」 自然とヒト

  • 大きな川に飛び石を設置して、向こう岸に渡れるようにした。

川を渡るなら橋をかければいいのでは、と思いがちだが、橋が発明される以前には倒木や飛び石による渡河が行われていたと考えられており、ある意味で、より原始に立ち帰った解決になっている。

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自然を征服するもの・自然の形を作り替えるものとしてのヒトの姿が描かれている。

 

第三話 「こうざん」 歌・いっしょにものを食べること・地上絵

  • トキといっしょに歌った。

人類史上、音楽の中でも歌声は最も初期のものであると考えられる。歌は楽器を必要とせず、どこでも行える娯楽である。

歌が言語のもとになったのではないか、という仮説もある。

https://www.brh.co.jp/seimeishi/journal/049/research_21_2.html

(リンク先:テナガザルの複雑な求愛のデュエットから言語の起源を考えよう、という霊長類学の一般向けの記事)

  • トキといっしょにジャパリまんを食べた。

誰かといっしょにものを食べる、という行為について、「同じ釜の飯を食べる」という表現があるが、実はこれとほとんど同じ成り立ちの語が英語にもあって、"companion"(ともだち)は "com-"(ともに)と "panis"(パン)を組み合わせてできている。いっしょにものを食べる、という行為がヒトに特有のものなのかどうかはわからないが、コミュニケーションの方法という面で象徴的なシーンだといえるだろう。アルパカ・サーバルとの合流後にいっしょにお茶を飲むシーンも同様である。

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柱の上で食べるジャパリまんはおいしい

  • 喫茶の場所を示す大きな地上絵を描いた。

絵を描くという行為は、モデルから特徴的な要素のみを取り出す捨象の能力、それを二次元の平面に実際に描く器用さなどが求められる高度なものである。

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動物がどのていど実際のモデルと抽象化された絵とを同一視できるかは興味深いところだ。少しおもしろいのが、ショウジョウトキは

「ここで何やってるの? 上から変なもの見えたんですけど。あと何か歌も聞こえたんですけど」

と発言していて、絵を見て「何か変なものがある」のはわかったものの、「カフェがあること」がわかったわけではないようである。 

 

第四話 「さばくちほー」 文明再訪(通貨・ピクトグラム

この回は少し特殊な立ち位置で、人類史を再演しているというより、かつてのヒトが遺したものを探訪することで、直接的にヒトの姿を描き出している。また、動物というには少し外れた枠のUMAのフレンズ、ツチノコが案内役を務めることで、一般のフレンズに説明させるには難しい話題にタッチしている。

  • ジャパリコインを発見した。

かつてのジャパリパークの通貨、「ジャパリコイン」が発見される。言わずもがな、通貨は価値基準を統一する有用な発明である。

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〈かばん〉が非常口をさすピクトグラムから出口の位置を推測する。第三話の「喫茶を表す地上絵」が絵を描く能力だとすれば、こちらは他者によって描かれた絵を読み解く能力で、ちょうど対をなす構造になっている。

なお、この回にも「ジャパリまんを一緒にたべる」シーンがある。

 

第五話 「こはん」模型・分業・知識の伝達

  • 家を作る前にまず模型を作ってみることを提案した。
  • ビーバーとプレーリードッグに分業を提案した。

絵・ピクトグラムに連なる、モデルを抽象化した「模型」づくりの提案と、人員を得意なことに割り振ることで能率をあげる「分業」の提案、この二つが人類史上で大きな役割を果たしたのは確かだろう。

ここでは、これら二つそのものではなく、それが伝達される過程に目を向けたい。

第四話までの〈かばん〉の行動は、結果はともあれ、どれも意図が理解されることのないまま実行されてきていた経緯がある。飛び石作り然り、地上絵然り、非常口のピクトグラム然り、フレンズたちは〈かばん〉の提案に従うものの、その意図を理解するという構図にはなっていなかったのである。

第五話では、ビーバーからプレーリードッグへの「望んだ向きへの木の倒し方」の伝達などがあり、自分の知識をいかに他者に伝達するか、というテーマが通底している。

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フレンズ界の匠たち

 

第六話 「へいげん」 戦い・スポーツ

  • ライオンたちとヘラジカたちの争いに「ルール」を設けた。

侵略すること、戦うこともまたヒトの歴史である。それと同様、和平を結ぶこと、ルールをきめて楽しく争うこともまた、ヒトの歴史である。

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たのしくあそぼう

 

第七話 「じゃぱりとしょかん」 文字・火・料理

  • 文字を読んだ。

文字の前に「矢印」への反応も示されている。文字を扱う動物は人間のみであり、もちろん、知識の伝達・整理に役立つ重要な発明である。

ここで注意しておきたいのが、識字能力は後天的なものであって、フレンズは「読む能力がないから」読めないのではなく、ただ「知らないから」読めない、ということである。これまでにも出てきたヒトの特徴の多くは、後天的な学習によって得るもので、〈かばん〉は元となったものから経験を継承しているからこそ、そういったことができるのだ、ということには留意しておきたい。

  • 火をおこし、加減を調整した。
  • 料理を作った。

「火」、「料理」に関してはちょうどいい本があるので紹介したい。

火の賜物―ヒトは料理で進化した

火の賜物―ヒトは料理で進化した

 

リチャード・ランガム『火の賜物―ヒトは料理で進化した』では、「料理によって消化に必要なエネルギーが減少し、その分のエネルギー余剰が知性の発達を促した」という説が紹介されている。「火」が「狩猟者」と「火の番」のような「分業」を生み出したのではないか、といったなかなか興味深い仮説が並ぶ良書である。興味を持たれた方はぜひ読んでみてほしい。

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火の番をする〈かばん〉。帽子で隠れて表情が見えない。

また、前半の旅の終着点である第七話では、これまでの旅の答え合わせがなされる。

ハカセ「目立つ特徴としては、二足歩行、コミュニケーション能力、学習能力などがありますが、多様性があり、一言で言いにくい……とてもかわった動物です」

助手「群れる、長距離移動ができる、それなりの大型、いろいろと特徴がありますが、我々がたいへん興味深いのが、道具を作る・使うことです。このパークにあるさまざまな遺物は、すべてヒトが作ったとされています」

 

次なる目的地

さて、これにて、〈かばん〉は自らの正体「ヒト」を認識するに至り、当初の謎であった「自分は何のフレンズなのか」が解決されてしまう。ここから先の旅の目的はなんだろうか。それは、第七話での

サーバル「ねえハカセ、ヒトはパークのどこによくいるの?」

助手「ヒトはもう、いないのです」

ハカセ「ヒトはもう、絶滅したのです」

ハカセ「もしくは、私たちの知らないところに今もいるのか……」

サーバル「じゃあ、そこを見つけることだね!」

助手「いずれにせよ、ヒトに適した地方に行くのがよいのです」

にある通り、「〈ヒトのなわばり〉をさがすこと」だ。

ここまでの旅では「図書館」を到達点とした人類史の再演が行われている。人類の足跡をたどりおえたいま、八話以降の旅はそうではない。次なる目的地は「〈ヒトのなわばり〉」「海の向こう」といった漠然としたもので、ここからは先のわからない未来の物語がはじまるのである。

第一部が、自分とは、ヒトとは何であるのかを探求する内向きの旅であったとすれば、第二部は、自分の居場所はどこなのか、他の仲間はどこにいるのかを探求する、外向きの旅といえるだろう。

じっさい、けものフレンズ」は前半部と後半部で物語の構造が大きく変化している。

まずは後半部の特徴的な性質を挙げてみよう。

 

後半部の特徴①:物語の定型性

後半部のひとつの特徴が、各話が定型的な性格を持っているというものだ。順番にみていこう。

第八話 「ぺぱぷらいぶ」

アイドルアニメの形式をとっている。誤解や不理解にもとづくメンバー同士の関係のトラブルがあり、なんやかんやして問題が解決して、最後は華々しいライブシーンで幕を閉じる。

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てちてち

第九話 「ゆきやまちほー」

いわゆる「温泉回」の形式をとっている。前半でトラブルが解決され、後半は温泉でくつろぐパート、というよくある構成である。

第十話 「ろっじ」

推理モノ、それも館モノの形式をとっている。外界から隔離された館で事件が起き、探偵によって事件が解決される。

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犯人は……

第十一話 「せるりあん

バトルものの形式をとっている。強大な敵と立ち向かうため仲間と力をあわせ、作戦を練って敵を倒そうとする、という構成である。途中までうまくいくものの、結局作戦通りにはいかない。勝負の結末は第十二話に持ち越される。

 

後半部の特徴②:フレンズの「動物性」

前半部と後半部に見られる別の差異、フレンズたちの「動物性」にも着目してみよう。

物語の前半では、第一話の「サーバルのジャンプ」、第二話の「土をなめるシカ」、第五話の「木をガリガリとかじるビーバー・プレーリードッグ」、など、ヒト型の生物が行うには異常な行動の描写がところどころに挿入されている。フレンズたちの「動物的」な部分が押し出されているといえる。

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ガリガリガリガリガリガリガリガリ……

物語後半ではこういった表現はなりを潜める。かわりに出てくるのが、第八話「ペンギンのアイドルユニットと熱狂的なファン」、第九話「ゲームをするキツネ」、第一〇話「漫画を描くオオカミ」といった、前半では考えられなかったレベルでの、フレンズたちの「人間的」な側面である。

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先にゲームする!

〈ヒトのなわばり〉を模索する「けものフレンズ」後半

人間を描くとなれば、適しているのは人間の物語の定型だろう。アイドルに熱狂し、温泉でくつろぎ、ときには人を疑い、力をあわせて敵とたたかう――物語の定型がフレンズたちの人間性を引き立てる。

さあ、これで「〈かばん〉の居場所・〈ヒトのなわばり〉はどこか?」の問いに答える準備が整った。

サバンナ、ジャングル、高山、砂漠――いたるところにヒトの営みはあり、どこが「ヒトに適した地方」である、と明言するのは難しい。しかし、ここで「なわばり」とは何かに立ち返って考えてみると、逆説的に〈ヒトのなわばり〉とは、ヒトが住んでいるところ、ということになる。

ジャパリパーク内に厳密な意味での〈ヒトのなわばり〉は存在しないが、フレンズたちの人間性が示されたいま、ジャパリパーク内の、フレンズがいるいたるところが〈ヒトのなわばり〉へと転化する。

 

設問と回答

前半は、〈かばん〉が何の動物であるか、ヒトとは何であるかを探求するための旅である。対比するように、フレンズたちの「動物的」な部分がよく見えるようになっている。後半は、〈かばん〉が自らのなわばりを探す旅である。フレンズたちはより「人間的」に描かれる。

前半部の設問、「〈かばん〉は何の動物なのか?」の答え。「〈かばん〉の正体はヒト」が第七話の回答である。

後半部の設問、「〈かばん〉の居場所・〈ヒトのなわばり〉はどこか?」の答え。「ジャパリパーク内のいたるところが〈ヒトのなわばり〉である」

注意してほしいのが、ここでいう〈ヒト〉はフレンズの「人間性」をさしたもので、ホモ・サピエンスを意味するものではないということである。

 

「フレンズ」のための「けものフレンズ」最終話

さあ、いよいよ最終話に取りかかろう。

絶体絶命のピンチに、フクロウのハカセと助手がたくさんのフレンズを連れて駆けつけ、彼らに号令をかける。

ハカセ「さあ、さっさと野生解放するのです」

助手「我々の群れとしての強さを見せるのです」

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全員集合!

ここでいう「群れ」とは何の「群れ」であろうか?

その答えは、後半部のストーリー展開でたっぷりと「人間性」を付与された、しかし強烈な「動物性」をも併せ持つ、野生解放した「フレンズ」の群れである。

ここにきて、かれらの動物的な面と人間的な面はひとつに統合され、オープニングテーマが高らかに響き、「けものフレンズ」という大きなタイトルロゴがあらわれる。かれらは「けもの」でもなく、「ヒト」でもなく、その双方の性質をもった「フレンズ」というひとつの群れである。

最終話では、〈かばん〉自身、単純に「ヒト」ではなく「ヒトのフレンズ」であったことが明らかになる。

ここに、〈かばん〉のいう〈ヒトのなわばり〉は、もはや〈フレンズのなわばり〉と言い換えたほうがよさそうである。

けものフレンズ」は「フレンズ」たちの物語である。

船が沈んで外への〈ヒトのなわばり〉探しができなくなったことにそこまで執着していないように見えるのは当然で、〈かばん〉の居場所はもう見つかっているのだった。

ジャパリバスを改造した船での出発のシーンの〈かばん〉は、故郷を探すというより、故郷を旅立つ冒険者然としている。

〈かばん〉はボスとふたりで海原に漕ぎ出して――やっぱりついていくことにしたサーバルたちが合流して――居場所まるごと、まだ旅はつづくようだ。

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エンドロール後の最後のカット。右下にうすく「つづく」の文字が見える

 

けものフレンズ」本編からスクリーンショットと文字おこしで引用を行いました。

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