人間乱数についての覚え書き

人間乱数

人間に「乱数列を書いてください」と頼むとけっこう変な偏りをもった数列を書いちゃうらしくて、人間乱数とか human random number generation とか呼ばれているようである。これがなかなかにおもしろい。
今回は、人間乱数の性質や成り立ち、その利用などについて、ちょこちょこ調べたことをいろいろ紹介してみようと思う。

ブツ切り傾向

いちばんわかりやすい例が「コイントスを100回やったときにできる裏表の列を想像して書いてみてください」というもの。

人間が書いた乱数列は、コインの裏表それぞれの頻度こそだいたい50:50になるものの、「裏が出た次の回に表が出る確率」および「表が出た次の回に裏が出る確率」、つまり「コインの裏表が入れ替わる頻度」が期待値(0.5)に対して異様に高くなるらしい。

2006-08-24

これはギャンブラーの誤謬と呼ばれる現象があらわれたものと見ることができる。ギャンブラーの誤謬とは「表が連続しているから、そろそろ裏が出るはず」というように、実際には独立な事象に対して「確率の揺り戻し」があると考えてしまうバイアスのことだ。このバイアスによって、裏と表の連続が必要以上にぶつ切りにされてしまうわけである。

引用したブログでは、人間は「何回も連続して何かがおこること」の発生確率を実際より少なく見積もるので、単なる乱数列のゲーム結果に対して「流れ」や「ツキ」を見いだしてしまうのではないかと結論している。スポーツ選手が連続してうまくシュートを決めるように見える「ホットハンド理論」とも強く関連したもので、非常に重要な指摘のように思う。

手前でも適当にコードを書いて生成してみたが、たしかに上の「正しいコイントス(表裏の入れ替わり確率50%)」よりも下の「入れ替わり過剰なコイントス(表裏の入れ替わり確率65%)」のほうが自然なように感じる。

「期待される頻度」に寄る傾向

人間が書いた乱数コイントスの裏表の頻度はだいたい50:50になる、と書いたが、実はここでも、人間乱数と正しい乱数のズレがある。100回コイントスをすると、40%くらいの確率で裏表に10個以上の差がつく(45:55/55:45以上に偏る)のだが、人間乱数ではこういったことは起こらず、50:50に近い出現頻度をとりがちな性質があるのだ。

この現象は、コイントスよりもちょっと複雑なタスク、「サイコロを何回も振った出目(1~6)を想像して書いてください」を人間にお願いしたとき顕著に見えるようだ。

http://blog.livedoor.jp/lunarmodule7/archives/4523745.html

引用したページでの

F1: 全体で出た目の回数のχ2値(5.0)

がこれにあたり、「頻度の期待値(1/6)への近さ」を表している。χ2値が理論値に対して人間乱数が半分の値を取っていることから、人間乱数には均等すぎるという性質があることがわかる。

これは小数の法則と呼ばれるバイアスに関連した現象のようである。「小数の法則」は、数学の定理である「大数の法則」をもじったもので、大数の法則が「無限回試行を繰り返せば頻度は期待値に一致する」(意訳)のに対して、「試行回数が少ない場合でも、頻度が期待値に近くないと不自然に感じる」バイアスのことである。

人間の思う乱数と実際の乱数がズレるそもそもの理由

ここまでで「連続するイベントを切りがち」「出現頻度を過剰に期待値に寄せがち」という二つの人間乱数の特徴を紹介した。じゃあ、なんで人間はそんなに乱数作るの苦手なんだよ、と考えると、どうも(進化の過程で遭遇してきた)現実世界のイベントはたいてい独立事象じゃないから説があるようだ。

Frontiers | The Gambler’s Fallacy: A Basic Inhibitory Process?

該当箇所を引用しよう。

The answer may stem from the probabilities associated with particular events and outcomes in both the real world and the casino. In a casino, outcomes are designed to be random whereas in the real world this is usually not the case. For example, when we developed the evolutionary account of IOR using the apple-picking scenario, we postulated that apple pickers inhibit an area of visual space, or perhaps an action associated with a just-picked-apple, in order to turn their attention to new locations and new apples. In fact, the probability of a new apple being in the same location as a just-picked-apple is zero (at least until next year). That is, the probability of event N + 1 is contingent on event N.

(中略)

The cognitive and neural systems that support performance in the real world cannot be expected to contribute to optimal outcomes in an artificial environment where the probabilities of one event are not contingent on previous events (i.e., the casino where outcomes are random).

論文中では「樹からリンゴを取ったら同じ場所からはリンゴが取れなくなる(N番目の状態とN+1番目の状態が相関している)」例が挙げられている。
この例の妥当性は措くとして、まあ同じ独立事象が何回も繰り返されるようなことが自然界であるかと言われれば、たしかにあまりなさそうである。リンゴに限らずリソースは「取ると減る」ものなので、ブツ切り傾向と対応している……と言われればそうかもしれない。

最後の部分は「現実世界におけるパフォーマンスを支えるための認知/神経システムが、イベントが独立に発生する人工の環境(たとえば、カジノ)において最適な成果を出すとは期待できない」といったところ。
「イベント発生が独立でない世界(自然界)」で獲得したメソッドを「イベント発生が独立な世界(ギャンブル)」に持ち込んでしまっているから齟齬が生じるのだとすれば、人間の脳は成り立ちのレベルでギャンブルに向いてないように思われる。

「人間の(一見)不合理に見える性質は、実は進化の過程で何かに適応した結果獲得したものである」をテーマに一冊、一般向けの本が"The Rational Animal: How Evolution Made Us Smarter Than We Think" /『きみの脳はなぜ「愚かな選択」をしてしまうのか 意思決定の進化論』のタイトルで出ている。パラパラ読んでみたところ、サルにも損失回避(プロスペクト理論といって、同額の利益と損失では損失を過剰に高く評価する)の性質があるなど、興味深いトピックが紹介されていた。

人間のもつバイアスと成長

では、これらの乱数へのバイアスを人間が「生まれたときから持ってる」のか、それとも「成長するうちに獲得する」のかというと、これは一口には言えないようだ。

少し話題が逸れるが、確率に関するいろいろな問題をアメリカのGrade 5, 7, 9, 11の学生(小5、中1、中3、高2にだいたい対応)に回答させた研究があって、成長にしたがって減少するバイアスと、成長にしたがって増加するバイアスがあるようだ。

https://www.jstor.org/stable/pdf/749665.pdf

成長して増大するバイアスの中で特に劇的なのが、

Q コインを3枚投げてうち2枚以上が表である確率は、コインを300枚投げてうち200枚以上が表である確率と比べて
① 小さい
②同じ
③大きい

という問題。
正解は「③大きい」なのだが、成長するにしたがって②が増え、③が減るというバイアスの強化がおこっている。子どもの頃は間違えなかった問題を成長するにつれ間違えるようになっていくのには奇妙な印象を受ける。

もうひとつが「Time axis fallacy」(あるいは同型の問題であるモンティホール・ジレンマのほうが通りがいいかもしれない)で、

AさんとBさんが、それぞれ白い石と黒い石が2つずつ入った箱をもらいました。

Q1 Aさんが箱から石をひとつ引くと、白い石でした。石を箱に戻さずに次の石を引いたとき、白い石が出る確率は、黒い石が出る確率よりも
① 小さい
②同じ
③大きい

Q2 Bさんは箱から石をひとつ引いて、色を見ずに脇に置きました。二つ目の石を引くと、白い石でした。一つ目の石が白い石だった確率は、黒い石だった確率よりも
① 小さい
②同じ
③大きい

という問題。

正解は「Q1. ①小さい、Q2. ①小さい」なのだが、成長するにしたがって、Q2のほうで②同じの回答が増えるというバイアスの強化がおこっている。

Q1. については言わずもがなだが、Q2. で「②同じ」と回答してしまうのは「後に引いた石の色が前に引いた石の色に影響を及ぼすはずがない」という考えにミスリードされるから、という説明がなされているようだ。(実際は二つ目の石の色が何だったかという「手がかり」が与えられることで、一つ目の石の色をより正確に予想できるようになる。)

年齢とともに因果関係を過信するようになって問題を間違えやすくなる傾向があるのはおもしろい。

人間乱数と成長

人間乱数そのものについて、8歳と10歳に0~9の乱数列を書かせてみた研究があるようだ。

An exploration of random generation among children

TPIという指標(相関が強ければ強いほど大きくなる)が8歳から10歳になると大きくなっていて、成長にしたがって「正しい乱数からのズレが拡大している」のがわかる。

「ある数字を書いた次にどの数字を書いたか」のグラフが以下のものだ。

An exploration of random generation among children より引用

グラフは「前の数字との差」を示していて、5の次に6を書いたら+1、5の次に0を書いたら-5、ということになる。0の部分に大きな谷があるので、人間が「同じ数字の連続」を異様に避けるのが読み取れる(どうせなら、iからjへの遷移確率の行列をそのまま見たいが……)。
8歳の+1の部分に大きなピークがあるのも要注目で、数を習って間もない8歳児がついつい「4567……」のような連続して1ずつ増えるシークエンスを書いちゃっているということで、ほほえましい。

逆にバイアスにあわせる

上で紹介したブログで、ファイアーエムブレムの確率表示のかなり興味深い工夫が書かれている。

たとえば、ファイアーエムブレムシリーズの封印の剣蒼炎の軌跡新・暗黒竜と光の剣では、攻撃命中率が表示されるにも関わらず実際の命中確率は、表示が50%以上の時には表示よりも高く、表示が50%以下の時には表示よりも低くなるように調整されている。これにより、90%なのにやたら攻撃が外れるとかいうプレイヤーの不満を減じることができる。

これは「ブツ切り」とも「平均化」とも違ったもので、「90%と言われたとき、90%以上の確率を想像してしまう」認知バイアスがあるようだ。

そういえば、ポケットモンスターのゲームは表記通りの確率を用いているが、「ねむりごなは表記75%だけど絶対そんなに当たってない」「ハイドロポンプの80%はウソ」といった「表示されている確率と体感確率が違う」話がよく聞かれる。

この背後には「重要な局面での高命中技の失敗」「ダメ元でやった低命中技での逆転劇」などが印象的で記憶に残りやすい、といったバイアスがありそうである。

実装した例は知らないが、たとえばゲームにおけるアイテムのドロップ率を「人間乱数にあわせた(自然な印象をうける)ものにする」ことは可能なはずだ。
1%の確率でドロップするアイテムがあるとしよう。直感的には「100回チャンスがあったら出そう」と思いがちだが、100回やって1%のものが出る確率は実は63%程度しかない(期待値は1になるが、これは2回以上ドロップした人によって値が押し上げられているため)。
はじめのほうのドロップ率を1%以下にして、以後は試行回数にしたがってドロップ率が上昇するように設計すると、(2回以上ドロップする確率を押し下げることで)期待値を保ったまま「100回チャンスがあったらだいたい出る」アイテムドロップが実装できるはずである。

かつてソーシャルゲームの有料ガチャの確率操作が問題になっていたが、これは公平性の問題であって、確率カーブを調整すること自体が悪なわけではない。
競技むけのゲームでもない限り、コンシューマゲームの「人間向けにチューニングした「快適な」確率」はどんどん工夫をこらしてやっていいと思うし、そういった話をいろいろ聞いてもみたい。

※追記
記事を公開して、「ランダムエンカウントのゲームで、戦闘後、一定歩数までエンカウント率を0にするという工夫はこれに当たるのではないか」との指摘をいただいた。これを実装しているという話はけっこう聞くように思う。
敵の出現確率が定数なら「戦闘後すぐに次のバトルがはじまる」ことも当然あり得るのだが、これを人間が「不自然」と感じるのももっともかもしれない(なぜなら現実界での「敵の分布」は一様ではないので)。
ただ、単にすぐ次のバトルがはじまるのは煩わしいのでユーザーエクスペリエンスを損なう、という側面もあるだろうとは思う。

シンボルエンカウントのゲームでは敵は「ある広さのエリアごとに一匹」というふうに配置されることが多く、これが生き物の「縄張り」と対応していると見ると、ある意味「自然な配置」かもしれない。

メダルゲームと標本平均の収束

「人間が自然に感じるように」とも「利益を最大化するように」とも別の方向で確率の動的な操作を行ってきたゲームのジャンルがある。メダルゲームである。
http://iroirogames.blog.jp/archives/8921473.html

メダルゲームの機械には、週や日の単位であまり成績にバラツキが出てほしくない事情があるそうだ。
ここでいう成績というのはペイアウト(投入するメダルの割合に対する放出するメダルの割合)のことで、管理コストの都合上、これが日によらず一定になってほしい、とのこと。ギャンブルと違って公平性を厳密に守る必要がないので、履歴に応じた確率操作を行ってパフォーマンスを安定させているのである。

ある時間単位で頻度が過度に期待値に近づくわけで、傾向としてはまさに「小数の法則」が対応する。

日単位で収束することを利用して、一日中記録をとって閉店間際に勝てるかどうか予測できる(あるいは、予測して勝った)話を聞いたことがあるが、ここまでくると眉唾ではある。

バイアスが強化される可能性

ゲーム内で使う人間向け確率なり、メダルゲームの収束機なりによって「チューニングされた確率」に慣れちゃうと、逆にふつうの乱数へ持つ違和感が今以上に増大する可能性はありそうだ。ほどほどにしたほうがいいかも。

どうでもいい話

中にコンピュータと可動おもりをいれて確率のある程度の操作を可能にした、「人間乱数実装サイコロ」ができたらちょっとおもしろいかもしれない。

「対戦チンチロリン」というゲームがあって、プログラムにおけるサイコロの実装が非常にまずくて

「1,3,4,6」の出る確率がそれぞれ1/8、「2,5」の出る確率が2/8になっている

とのこと。
対戦チンチロリン - ゲームカタログ@Wiki ~名作からクソゲーまで~ - atwiki(アットウィキ)
このゲームの場合は残念ながらまごうことなきバグでクソゲーになっちゃったようだが、既存の「同様に確からしい確率」を前提にしていたゲームの中には、確率を変えることでガラリとゲーム性を変えるようなものがあるかもしれないと思う。

確率の話とは少し離れるが、私はゲームで「50回戦闘したな~」と思ったとき、カウントをみるとだいたい30回もいってない、という経験がよくある。常に過剰な見積もりをしてしまうこれにも、何か変なバイアスがかかっている気がする。

メディア依存コンテンツと、Vtuberのフロンティア

メディアとコンテンツ

 私はKindleiPadを持っていて、紙の書籍しかない・紙のほうが安い・電子版が出るのを待ちきれない・とにかく物理書籍がほしい〜!!! と思うとき以外はだいたい電子で本を買う。最終的な割合は半々くらいになる。

 これまでの記事でもいくつか書いてきたが、私には「メディアにあわせたおもしろい試みのコンテンツが見たい」という気持ちがあって、たとえば電子書籍だとハイパーリンクがいっぱい貼ってあったり、いつのまにか内容が変わっていたり、なんか動いたりするような異物がもっとあってもいいと常々思っている。

 漫画の場合、フリーで公開されている「有害無罪玩具」というのがいろいろと新奇な試みをしていて、舌を巻いた。これはおもしろい。

有害無罪玩具

 ただし、むやみやたらに「そのメディアでしかできないこと」をやったらいいかというと、もちろんそうではない。これはけものフレンズのBDについてた監督インタビューに書いていたことなのだけれど、3Dアニメーションで何かを作るとなったとき、2Dから来たクリエイターは必要以上にカメラを回したがる、とのこと。2Dではカメラが気軽に回せないから。特に意味もなくカメラが回るとすれば、たぶんそれはダサい。

 電子書籍メディアで文芸の新しい試みを見たい! にも、そういうダサさはついて回るように思う。新しいと思ったものが実は近い世界ではとっくにもっと高いレベルで発展・成熟したものだった、ということも多いだろう。たとえばパソコン/ゲームは電子書籍が一般的になるずっと以前からあったわけで、デジタル界独自の(テキスト的な)ストーリーテリングの手法は、インタラクティブ性や物語の構造という点において、アドベンチャーゲームに一日の長があるのは間違いない。

 かといって、既存メディアでやっていたことが新しいメディアで少し形をかえて再演されることに価値がないかというと当然そんなことはなくて、メディアを変えて花開く分野だって多いに違いない。

 そういったことは頭の片隅に置いたうえで、でもやっぱり、新しいメディアの特長をいかした演出というのはガンガンやってほしいし、ガンガン見たい。特に発展途上のメディアでは、そうした試みはそのメディアの可能性をグッと広げるポテンシャルがあるように感じられて、見ていてうれしくなる。なにより面白い。

 今回の記事では、Vtuberというメディアで、Vtuberにしかできない、Vtuberの可能性を広げるフロンティアをいくつか紹介したい。

Vtuberのフロンティア

 Vtuberの最前線を考えるため、実写Youtuberを参照点にしてみよう。両者の差違と、その特異性をコンテンツに昇華した動画/Vtuberを紹介していく。

①距離

 誰かをゲストに呼んでインタビューする企画を考えてみる。
 実写の場合はたいてい、実際にその人がいるところに行く・あるいはどこかに来てもらう、ということになる。 手間がかかるし、距離が離れていると困難でもある。
 VRの場合は「VR空間で待ち合わせ」すればいいだけなので、軽いフットワークでのインタビュー企画ができる。
 (実写の場合でも電話インタビューなら遠隔でも可能だが、「アバターが同じ空間にいる」感覚はむずかしい)

 というわけで、ひとつめの観点が「インタビュー・対談の手段としての可能性」である。
 これは各種Vtuberのいわゆるところの「コラボ動画」にも言えることで、気軽に同じ空間を共有できるのが特徴である。

本山らののバーチャルラノベ読書会 第1回
www.youtube.com

 上に挙げた動画は、ラノベ好きバーチャルYouTuber・本山らののチャンネルの生放送企画で、Vtuberがラノベ作家をゲストに招いた企画を行っている。

②仮面

 引き続き「インタビュー・対談の手段としての可能性」の話。
 実写でないのでゲスト側も顔出ししなくてよい。これは非常に大きな要素である。
 というのも「顔出ししなくてよい」というのは顔を隠したいだとか、そういう話をはるかにこえた気軽さを生み出すものなのだ。
 べつに撮影準備に部屋を片付ける必要もないし、化粧をしたり髭を剃ったりと身だしなみを整えなくてもいい。なんならパジャマでもいい。
 FaceRig が何もかもを覆い隠す完璧な仮面をつけてくれる。

③身体

 「新しい形のゲーム実況の可能性」の話。
 ふつうのゲーム実況では、プレイヤーとプレイアブルキャラクターは別ものである。
 たいていのゲームではこれは実写のYoutuberもVtuberも同じなのだが、一部VRゲームについては状況が変わってきている。

【Beat Saber】世界ランキング100位以内に入るまでやめません【おめシス卿の覚醒】
www.youtube.com

 こちらはバーチャル双子YouTuber、おめがシスターズの動画。普段から2人でかけあいながら様々な企画を行っている。Beat Saberは流れてくるノーツを剣で斬るという斬新なゲームで、VR用のコントローラーで実際に身体を動かしてプレイする。Modを入れることでVRChatのアバターが使用可能。

 「配信に使っている3Dモデルをそのまま使えるゲーム」の場合、ゲームによっては実況者とキャラクターは不可分になりうる。
 配信者その人がゲーム空間内にいるわけで、実写にはない奇妙な味がでてくる。

④オブジェクト

 VR空間では物体の創造が現実に比べてはるかに容易で、安価で、無制限である。
 「現実には不可能な物体を使った企画の可能性」の話。

第02回 バーチャル巨大幼女怪獣 大ピンチです!
www.youtube.com

 こちらはバーチャル巨大幼女怪獣、たいらんくんの動画。普段から人類のみなさんと不器用な交流をする動画をアップしている。ビルをたくさん作って踏みつぶして歩くこともできるし、ビームでなぎ払うこともできる。現実では、なかなかできない。

【08小隊】輝き撃ちは盾の上なのか3Dで検証してみた
www.youtube.com

 同じくおめがシスターズの動画。アニメのとあるカットを3Dで検証している。ガンダムを実際にいろいろ動かして配置を検討する。

VRアカデミア】建築家って何? ヴィジオネールって?
www.youtube.com

 今回の記事で、いちばんみなさんに見てほしい動画。半分以上、この動画をみてほしいという気持ちでこの記事を書いた。
 バーチャル建築家「番匠カンナ」はVR世界の建築のパイオニアで、現実にある有名な建築物についてのデザインや技術の背景の話や、VR世界における建築のあらたな可能性について語る動画をいくるか投稿している。
 上の動画では、現実には建てられることのなかった18世紀建築家のアイデアスケッチが、VR世界で立派な建造物として姿をあらわす。
 この動画、単純にトピックがおもしろいのと、動画の緩急が見事で本当にびっくりする。絶対みてほしい。

可能性

 上の動画タイトルにもついている【VRアカデミア】というのは、いろいろな分野のひとびとが自分の専門分野・明るい分野について、Vtuberとして講義の形式の動画をアップして知の共有しよう、という自由参加のプロジェクトのようである。まだまだ人数も少なく発展途上で手さぐりしている印象だが、おもしろい試みだと思うし、規模が100倍くらいになってどんどん盛り上がってほしい。

 今回は「VRでしかできないこと」というテーマで記事をまとめていて、この視点から言えば、VRアカデミア自体は必ずしもその範疇ではなさそうである。じっさい塾講師や専門家の各種解説動画というのは実写のものが数多くある。
 VRアカデミアは、序言で述べた「VRでしかできないこと」にこだわりすぎていると陥る落とし穴のひとつ、「新しいメディアでの少し形をかえた再演が大きな価値がある可能性」のように思う。

 いまいちど、そうしたことを心に留めつつ、でもやっぱり、VRでしかできないことのフロンティアは、おもしろい。話が散らかってきたので今日はここまで。

serial experiments:断片化した物語の可能性

物語の順序

 映画やドラマ、小説などの物語には「見る順番」「読む順番」がだいたい決まっていて、ふつうはその順番に従うのが一番楽しいようなつくりになっている。だいたい、一話の後に二話を見ること、一巻のあとに二巻を読むのがよい。
 たとえば推理小説の場合も、後ろのほうの解決篇を覗いてから読むよりは、素直に頭から読んだほうがよいだろう。最初から犯人がわかっているほうが体験として楽しくなる場合は「倒叙もの」といって、クリエイターのほうで後ろのほうの記述を前にエイヤッと持ってきてくれることもある。いずれにしても、私たちに供されるのは「推奨順序順」にきれいに整えられた作品である。

 今回の記事では、この順序構造を意図的に破壊することで、新しい物語の可能性を拓いた作品をたどってみることにする。

「読む順序」の歴史(てきとう)

 文学の世界で「読む順序」の話をするなら、フリオ・コルタサル『石蹴り遊び』の話は避けて通れない……ようなのだが、私は読んでいない。読んでいないので、避けて通りたい。

 木原善彦『実験する小説たち』に、『石蹴り遊び』含むさまざまな実験小説が一覧されているので、この本の記述に頼って、紙媒体での本で「読む順序」についてどのような試みがなされてきたのかを軽く見てみよう。

 『実験する小説たち』は、実験の方向性に応じて全18章にわけたトピックのそれぞれに「使用テクスト」として典型的な作品を掲げ、その作品についての解説と関連作品を挙げる形式をとっている。今回の順序に関する話題だと、第4章「どの順番に読むか」(使用テクスト:『石蹴り遊び』)と第18章「どちらから読むか(使用テクスト:『両方になる』)」を参照すればよさそうだ。

 コルタサル『石蹴り遊び』は、章単位での「(複数通りの)読む順番が定められた」小説である。『石蹴り遊び』には、全155章のうち第1章から第56章までを順番通りに読む(57章以下は読まない!)「第一の読み方」と、冒頭にある「73-1-2-116-3-84-4-……」といった数字の並んだ「指定表」の順に章を読む「第二の読み方」がある。それぞれの読み方は「第一の物語」「第二の物語」と呼ばれているので、これは同じテキストを別の順番で取り出すことで別の物語を生み出す試みとも言える。
 とはいえ、物語は1-36章と37-56章、56-155章で第一部・第二部・第三部にわかれていて、「第二の読み方」は基本的には「第一の読み方」に散発的に「第三部」の章が挿入される、という感じで、あまり内容がガラっとかわってそれがエンタメ的に面白い、というわけでもないようだ。第三部はだいたい雑多な文章な寄せ集めになっているそうで、「オリジナル版とディレクターズカット版を抱き合わせにしたような本」という比喩も紹介されていた。
 ただし、もちろんただヘンなことをやっただけというわけではなく、「『石蹴り遊び』がこのような構成になっている理由」もきちんと考えればちゃんとあるようである。『実験する小説たち』に面白げな解説があるが、なにせ私は本編を読んでいないし、これ以上はよしておく。キミ自身の目でたしかめよう!

 第18章のアリ・スミス『両方になる』のほうは、相互補完的な二部(説明のため、仮にAパート・Bパートとする)にわかたれた長編小説である。変わっているのは出版形態で、「Aパート→Bパート」の順のものと「Bパート→Aパート」の順のものがそれぞれ半々の割合で印刷され、全く同じパッケージで書店に並べられたということだ。
 何も知らずに手に取った読者のレベルでは、いつものように持っている書籍の順序が「推奨順序」だと思って頭から読むが、出版のレベルでは実はどちらの順序も等価、というのがこの本の異質性である。お話としてもおもしろく、作中にも「卵が先か、鶏が先か」などといった自己言及的な比喩などがあってタイトルもうまくはまっているとのこと。
残念ながら未訳。

「読む順序」の破壊という観点では、『石蹴り遊び』も序文で「第一の物語」「第二の物語」と名付けている以上、ふたつの物語に序列が存在してしまう(たとえば、多くの読者は第一の物語を読んでから第二の物語を読むだろう)し、『両方になる』も読者のレベルでの体験はふつうの本と同じである。

 それぞれのエピソードに順序がなく等価であることを演出するために、綴じてないバラバラの紙が入った箱を本として販売した例もあるようだ。
B・S・ジョンソン『不運な人々』で、「いくつものイメージが一斉に頭にわき上がってくる」ことを表現するため、「最初」と「最後」の間の25枚の紙を「好きな順番で読んでよい」としてこの手法で出版したとのこと。

 と、こんな感じでいろいろ工夫はなされてきたのだが、「紙」というメディア自体が、コンテンツ内で別項目を参照するのはめんどくさいし、順序構造を工夫するのにも制約が多いなど、実験的なことをするには少し窮屈である。

 これから何の話をはじめるかはもうおわかりだろう。デジタルメディアの登場だ。

serial experiments lain

 「serial experiments lain」は1998年にPIONEER LDCから発売されたPS1のゲームである。同時展開されていたアニメともども謎のカルト的な人気があって、出荷数に比してなぜか名前がよく知られている。やっかいなことに、入手困難かつゲームアーカイヴスにもないので、運がよくないとプレイすらできない。

PSストアの紹介ページ。何もない
http://www.jp.playstation.com/software/title/slps01603.html

 登場人物は主に「岩倉玲音」という少女と「トーコさん」という精神科医の二人。玲音はどうも心に問題を抱えているようで、トーコさんにカウンセリングを受けている。カウンセリングの記録や彼女たちの日記がデータとして電脳空間(?)に散らばっていて、これを閲覧していくのが serial experiments lain というゲーム(?)である。

 「カウンセリングの記録」「玲音の日記」「トーコの日記」などはすべて音声記録の形で、尺も短くて数秒、長くて2分程度の断片である。
 これらの「データ」が全部で2〜300個ほどあって、(基本的に)どの順番でアクセスしてもいいようになっている。
 データは(基本的に)時系列順に並べられていて、時系列をたどるようにアクセスすることが可能である。また、それぞれのデータには二つずつリンクがついていて、話題として関連するデータへ飛べるので、そうやってトピックを軸にたどる方向もクリエイターは意図していたようである。
 が、わざわざ順序のついたものをバラバラに鑑賞する意味は薄いし、インターフェイス諸々の問題からストレスでもある。多くのプレイヤーは「時系列の順に」物語にアクセスしたことと思う。私もそうした。

 結局のところ、lain における物語の断片化と「好きな順序に読んでいいよ」という一応のスタンスは、「プレイヤー自身の手によってデータを閲覧すること」を印象づけるメタフィクショナルな演出として使われたものだ。この演出は強烈で非常に印象的なものだが、「順序を崩せる」とはいえ順序は実際的には依然と存在するし、データ同士を結びつけるリンクについても、あまり有意味な演出効果はないように見える。

「順序」の非在化

 wiki読むのって楽しい! という経験はないだろうか?
 Wikipediaのおもしろ記事に貼られたリンクから別の記事に飛んだらまたおもしろ記事だったり、MTG wikiで関連カードとの差違やメタ戦術を読んだり、TYPE-MOON wiki を覗いてみたり、SCP財団のページを読みあさったりなどなど、私も多くの時間をwikiで無為につぶしてしまった。
 wikiは「興味のおもむくままにリンクをたどって何かを読む」ことを許容するし、それに特化した形式だとも言える。wikiの形式はただそれぞれの記事がリンクでつながっているだけで、そこに順序構造は存在しない。

 このwiki形式で小説を書いちゃった(!)のが、酉島伝法「棺詰工場のシーラカンス」。作者のブログで公開されている(というか、ブログのほとんどの記事がこれ)。

最初に書かれた「【○】卵」の記事。ここから適当にハイパーリンクをたどって読む
blog.goo.ne.jp

 謎の生き物たちの大量のダジャレにまみれた生態や歴史が書かれた作品で、おそらく私はすでに8割くらいの記事を読んでいるのだが、いまだにかなりの部分が謎でどうなっているのかわからない。たぶん今度また挑戦すると思う。

リンクをたどっていく発想は往年のゲームブックにも近しいものがあるが、「展開を選択する」のではなく「文章中の適当な単語のページに飛ぶ」のはよりザッピング的というか、順序無視的な性格が強くて、ポテンシャルを秘めたブルーオーシャンな形式のように思う。wiki小説、他にもあったら教えてほしい。

Her Story

 2015年になって、「断片化したデータに順序づけがなく(正確には、順序にしたがってデータにアクセスする手段がなく)」かつ「ユーザーが任意の順番でデータにアクセスすること自体をゲーム性として成立させた」革新的なゲームが登場した。

store.steampowered.com

 「Her Story」は、およそ300個ほどの実写ビデオクリップで構成されたゲームである。どのクリップにも一人の女性が映っていて、カメラに向かって何かを話している。言ってしまえば、Her Story のゲーム内容は「好きな順番でビデオクリップを見る」だけなのだが、この「好きな順番」というのがクセモノで、ここに未知のゲーム体験がかくれている。

f:id:xcloche:20180625182946j:plain
Steam公式のページより引用。こんな感じの画面がえんえん続く

 300個のビデオクリップは「データベースに保存されている」ことになっていて、データに直接時系列順にアクセスするようなことはできない。かわりにこのデータベースは任意の言葉で「検索」することができて、この「検索」にかかった動画を再生できるのである。

 ゲームを起動すると、初期状態では「殺人」という言葉が検索されている。検索結果には「殺人」という言葉を発言に含むビデオクリップが並んでいて、まずはこれらを再生していくという案配である。
これらの動画を見るとすぐに、どうやら彼女が警察署内にいるらしいこと、何らかの事件に巻き込まれているらしいこと、などがわかってくる。プレイヤーは「この事件について詳しく知るには何を検索すればよいか?」を考えて、別の言葉(たとえば「犯人」とか)を検索していく。これを繰り返しているうちに物語の全貌が明らかになっていく。

 このゲームのうまいところが、「(古いマシンなので)検索結果を5つまでしか表示できない」こと。たくさんの動画がヒットするような単語でも、(おそらくタイムスタンプの古い順で)上位5件の動画までしか検索結果画面に並ばないようになっているのだ。むやみに一般的な言葉を検索するだけでは核心部分の動画を見ることはできず、頭をひねってうまい検索ワードを考えるのは、既存のゲームで体験したことのない感覚だった。

 Her Story というゲームは、断片化したビデオクリップを関連性をヒントにつなぎ合わせ、プレイヤー自身の手でストーリーとして再構築するゲームである。まあ lain もそうだと言われたらそう言えなくもないが、これをゲーム性として達成したのは偉業といっていいだろう。(そもそも lain はゲームを志向していないようで、公称も「アタッチメントソフトウェア」)。間違いなく、断片化した物語の形式の最前線のひとつのように思う。

 主演女優の怪演も見どころで、何より体験として新しいので、ぜひプレイしてみることをおすすめする。Steamで600円くらいで売ってる(18/06/25現在、サマーセールで200円くらいになってる)。プレイ時間は2時間くらい。

断片化した物語の可能性

 物語の断片化の一般的な性質として「読者が自分でつなぎ直さなければならない」ことがある。「棺詰工場のシーラカンス」や Her Story は、リンクや予測される関連語彙のかたちでうまく「読者の好きな方向から物語を再構築して読んでもらう」作品だ。この読者依存な物語順序というのは、気ままに調べ物をしているときたまに感じるパズルのピースがカッチリはまる感触といおうか、あまりフィクションで見かけたものではなかった。 デジタル時代の文芸がもっと盛んにいろいろ試みていい分野のようにも思う(ゲームに片足突っ込んでいるが)。

 ついでに。ソーシャルゲームのシナリオはかなり断片化されているので、それを利用したような仕掛けのものがでてきたらおもしろい。ソシャゲーは数が出ている割に観測範囲では実験的な作風のものがあまりない気がする(大金が動いているのだからそれはそうな気もする)ので、オモシロなものを発見したらぜひ教えてほしい。