玉虫色の視点:「非」同一な世界を共有すること

「1パーセントの仮想」

先日、ヨツミフレーム@y23586氏が開催したVRChat内のメディアアート展覧会「1%の仮想」に(VRで)行った。

展覧会自体は、VRけん玉や、空中に書けるペン、折り手順をすっとばして展開図から完成品に直接シームレスに変形する折り紙、VR界隈の現状を表した3Dグラフ、立つと幽霊が見えるようになるスポット、IPアドレスから割り出した参加者の「実際の」の距離関係を表したグラフ、などなど、VRの虚構性をあらわしたものや、VRでしかできない挑戦的なもの、VR技術の展望が見えるような展示などがたくさんあって、かなり楽しめるものだった。VR界のマイルストーンのひとつと言っていい出来で、この個展を1人でやったというのは本当にびっくりする。

こちらはヨツミフレーム氏のインタビュー。

会場に入ってすぐに「1%の仮想」の題字があるのだが、展示を一周して戻ってくるとそれが「1%の本質」に変わっているという心憎い演出もあって、これには思わず声がでてしまった。

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補記:"virtual" の訳として「仮想」をあてたのは誤訳ではないか、という話がある(形は別だがある種の「本質」を保っているもの、というニュアンスが強いため)。

再度開催の予定があること、またゆくゆくは英語もつけてPublicにするとのことなので、VR環境がない人もデスクトップモードでいいので行くことをおすすめする。

その展示の中に、「玉虫色の視点」という作品があった。

玉虫色の視点

「玉虫色の視点」は、宙に浮かんでいる玉虫色の物体である。

前から見ると「縦」、横から見ると「横」、上から見ると「高」の漢字が見えるようになっている。オブジェクトはそれぞれの方向から投光され、「縦・横・高」の三文字がそれぞれの方向にシルエットとして浮かび上がっている。
側にあるパネルには「視点によって見えるものが違う」うんたら、みたいなことを書いている。

www.amazon.co.jp GEBの表紙の3Dアンビグラムのアレ

GEBの表紙で見たことある3Dアンビグラムのアレじゃんと思っていたら、この作品のほうが一段も二段も上手で、とんでもない仕掛けが仕込まれていた。

作品について周囲の人とおしゃべりしてみると、

Aさん「あ~角度によって違うものが見えるやつですね」
Bさん「なるほど~」

あたりまでは話が噛み合うのだが、見えているものの話になると

Aさん「縦・横・高さ、になってるんですね」
Bさん「緑色のイモムシみたいなのが見えますね」
Cさん「○△□が角度で見え方が変わるんですね」

と、とたんに意見がバラバラになるのである。

この「玉虫色の視点」という作品、見る方向だけでなく、人によってそこにあるもの自体が違うのだ。

どうやら縦・横・高のパターン、イモムシ・サナギ・チョウのパターン、○・△・□の3パターンがあるっぽい。

VRヘッドセットをつけるとVR内のオブジェクトは「あたかもそこに存在しているかのように」見える。その「確かに存在している(と思っている)もの」が人によっては全然違うものの可能性がある、のをはっきりと見せられて、一種の恐怖を感じた。

しかしよくよく考えてみると、VRChat内ではこうした「世界が個々人の間で同期されていない」事例がいくつかある。
今回は、VRChat内の「ユーザーによって見えている世界が違う」例を数点挙げて、この現象について少し考えてみたい。

実例①:Local ミラー

3D描画において、鏡というものはちょっと負荷が大きいようで、VRC内のワールドに鏡があると視界のフレームレートが下がる。40fps程度ならまだ見られるが、周りに人が多いときなど、場合によって20fpsを割ってしまって、そうなると世界がカクついて見えはじめる。

これを防ぐための工夫のひとつが Local Mirror と呼ばれるものだ。要は「鏡が見たい人にだけ鏡が見えればいいじゃん」という発想で、ワールドに設置されている「Local Mirror」のスイッチを入れると、目の前に自分にだけに見える鏡が出現する。鏡を見たい人/現在マシンパワー的に余力がある人は鏡を表示すればいいし、そうでない人はオフにすればよい。

このLocal Mirrorのシステムは、VRChatにある奇観を生んだ。壁に向かってつっ立っている謎の集団である。注意ぶかく探すと近くに鏡を制御するスイッチを見つけることができて、彼らが鏡を見ていたということがわかる。何もないと思った壁には、たいてい「私がまだオンにしていない鏡」があるのだ。

BGMについても同様で、「Local BGM」をオンにすると、オンにした人だけに音楽が聞こえる、という仕掛けはよく見るものだ。

この手のLocalなオブジェクトはVRChatのそこかしこに存在している。自分にとってそこにあるものが、他のだれかにとってもそこにあるとはかぎらない。

実例②:物理法則とアニメーション

VRChatは非VR(デスクトップモード)でも入ることができる。大きな違いは閲覧環境(ディスプレイで見る)や操作方法(キーボードで操作する)だが、それ以外にもいくつか内部処理にも違いがあるようだ。そのひとつが、「物理演算の更新ステップ幅」である。

VRモードでは90fps、デスクトップモードでは30fpsで値が更新されるらしい。ふつうステップ幅が違ったくらいで物理演算の結果が劇的にかわるはずはないのだが、どうやら「フレーム数」を基準に動いている要素があるせいでこのようなことが起こっているようだ。「ぼくから見たらゆっくり動いているように見えるんですけど、VRの人からは高速で動いているように見えるらしいですね」と言われたことがある。人によって物理法則が異なるということすらあり得るのである。

この効果によって「物体がゴールに到着した時間」といったものも当然ズレてくるわけで、たとえば「ボールがこの輪をくぐったら合図してください」という実験をすると、デスクトップユーザーとVRユーザーは別のタイミングで反応することになるはずだ。

アニメーションについては「自分」と「他人」で見え方が違うことがあるようだ。自分で見えている自分の動きと、他人から見えている自分の動きは異なるもので、しばしば「これちゃんと動いてます?」とまわりの人に聞くことになる。

実例③:ブロック・ミュート・Safety and Trust System

VRChatにも厄介なユーザーはいて、大声でわめいていたり、爆音で効果音を再生したり、描画負荷が高いエフェクトを再生して他のユーザーのクライアントを不調にさせたり、他人の視界をジャックして視界右側に常に赤座あかりの画像を表示してきたりと、そういうヤベーやつらには対策を講じる必要がある。

この対策として用いられるミュート(その人が発する音を一切聞こえなくする)やブロック(その人の存在そのものを消す)は、個人ごとの世界の見え方を大きく変える実例のひとつだろう。

中でもブロックについては、ブロックしたユーザーのアバターも声もネームタグもすべてが消滅して、「同じワールドにいる人」のリストにかろうじて名前を残すのみになってしまう。

ブロックされるのはたいてい相当な厄介者なのであまり考えにくいが、仮に会話をしている集団の中に自分が昔ブロックした人がまじっていれば、「何か話が噛み合わないな、と思ってたら自分にだけ見えない人がいた」という状況が生じうるわけである。

さらに、9/21に発表されたVRChatのオープンβでは、新たに「Safety and Trust System」なるものが導入された。これは「ユーザーを信用度ランクに応じてフィルタリングする」ものだ。

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VRChat Safety and Trust System: Changes and Feedback より。6つの設定項目をOn/Offできる

「信頼度の低いやつのシェーダー(3Dを描画するためのプログラム)はデフォルトの軽いやつにしとこう」とか「フレンドのだけはパーティクル(銃弾飛ばしたり雪降らしたりするやつ)見えるようにしとこう」とかが設定できるようになるのだ。

知り合いになると(文字通り)ディテールが見えてくるというのは、ちょっとおもしろい。

世界を共有すること

まず共通した同一の世界があって、それを各々が認識している、というのが現実における一般的な考えだろう(哲学の言葉でいう「物自体」が考えとして近いように思う)。

この描像の中で、「認識が変質することで、世界の見方がかわってしまう」話はしばしば聞くもので、『火の鳥 復活編』などがいい例だろう(事故の後遺症で人間がロボットに、ロボットが人間に見えるようになってしまう話)。幻覚症状などもふつうはこの描像で説明される。

ただ、これまでに挙げた「ローカルにあわせて変化する世界」は、この枠の外にあるものだ。世界のほうが個人にあわせて形を変えてしまう状況というのは、今のところ基底現実では起こってこなかったことである。「共通した世界というものが存在して、それを各々が認識する」という考えは更新されなければならない。

共通点

とはいえ、私たちがVRで「同じ空間にいる」と錯覚できる程度には、個人間に「共通するもの」が存在する。

内部処理に目を向ければ、VRChatサーバーにある「世界のデータ」は共通のもののはずである。それを各々のPCで再生する際に、自動的・あるいはユーザーの能動的な操作によって世界にフィルタがかけられ、「個人化」が起こるのである。

これまでは認識によって「個人化」を行なってきたことを考えると、その前の段階で世界を解釈してしまうソフトウェアは、ある種の「認識の外部化」なのだ、と言えるだろう。

ここで、「認識がどのように外部化されているか」ということにいくらでも無自覚になれるのが、この手のフィルタのおもしろい/こわい側面である。 これからどんなフィルタが出てくるのか、またそれらのフィルタを個々人はどの程度自覚的/無自覚的に使うようになるのかなど、面白いものが見えてきそうだ。

メモ

  • 「他人には見えないが自分には見える」(あるいは逆)物体、ボードゲームと相性が良さそう。
  • 同音異義語の「玉虫色の視点」があれば自動的にアンジャッシュの状況が発生しそう。
  • 「人に勝手にフィルタをかける」ことによる情報操作は可能そう。
  • 世界が「玉虫色」すぎると「同じ空間にいる」幻想が破壊されるかもしれない危険性はある。幻想を維持できるギリギリまで玉虫色にした世界というのも面白そう。
  • あるいは、もしかすると基底現実における「共通した世界」と思っているものもそこまでしっかりしたものではなくて、気づかない間に個人にあわせて変質しているのかも、と妄想することもできる。