「あなたの人生の物語」のテキスト演出と、「メッセージ」の映像演出

先日アメリカに行く用事があって、帰りのアメリカン航空の機内で映画「メッセージ」(原題は「ARRIVAL」)を観た。国内でも映画館で観ていたので二回目ということになる。機内では特にやることもなかったので、暇に飽かせて一時停止と巻き戻しを繰り返しながら約4時間かけてねっとりと鑑賞した。

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言語学者は、外国人のコミュニケーションの翻訳を支援するために軍隊に募集されています。よかったですね。

映画「メッセージ」の原作は「あなたの人生の物語」という中編小説である。これはアメリカのSF作家テッド・チャンの同名の短編集『あなたの人生の物語』に収録されている。
粒ぞろいの作品集であるのに加えて、テッド・チャンは非常に寡作なので、現在ではこれ一冊を読むだけで「テッド・チャンはほとんど読んでる」と言えてお得(?)だ。ぜひ読んでほしい。

実のところ、映画館ではじめて観たときは「がんばってるけどハリウッド的な脚色が鼻につくし、まあ、こんなもんかな〜」とちょっとネガティブな感触を抱いていた。それで機内でなんとはなしに二回目を観て、冒頭の五分で涙ぐんでしまった自分にびっくりしたのだった。
2回目だったこと、時間をかけて鑑賞できたこと、字幕がなくて台詞と映像に集中できたことなどがあっていろいろな発見ができ、ぜひ感想文が書きたいナとなったので書くことにする。

続きは「メッセージ」と原作「あなたの人生の物語」のネタバレがあるので注意してね。

原作と映画の主な違い

いかにして原作「あなたの人生の物語」が「メッセージ」として映像化されたのか見るために、二つの作品の筋書きの上での大きな違いをおさらいしておこう。

  • 宇宙船
    原作:ヘプタポッドとのやりとりは船外でモニタ越しに行われる。
    映画:ヘプタポッドは人類を宇宙船内に招き入れて、ガラスごしにコミュニケーションを行う。

  • 認識様式の描写
    原作:物理学者チームによって、ヘプタポッドたちは「同時的認識様式」をしているのではないか、という仮説があがる。
    映画:ヘプタポッドにとって「時は流れるものではない」と描写される。

  • 軍部
    原作:あまり活動的でない。
    映画:過激派が爆弾をしかけたり戦車が出動したりと元気に活動。

  • メッセージ
    原作:これといって特別な「メッセージ」は提示されない。
    映画:12個の宇宙船によって12分割された「メッセージ」が送られる。

  • ヘプタポッドの死
    原作:ヘプタポッドが死ぬ展開はない。
    映画:過激派の爆弾によってアボットと名付けられた個体が「死の過程」になる。

  • ヘプタポッドの目的
    原作:何しに来たのかわからないまま帰ってしまう。
    映画:「3000年後に人類の力が必要になる」旨の発言があり、何らかの意図があるらしい。

  • 娘の名前
    原作:娘の名前は明示されず、ただ「あなた」と呼ばれる。
    映画:「HANNAH」という名前がつけられている。

  • 娘の死因
    原作:国立公園で崖から転落死する。
    映画:難病が原因で病死する。

映画化でなされたこれらの変更点をヒントに、
①「語り」の時制と被写界深度
②変分原理と対称性
③シーンの同時性
の三つの視点から映画「メッセージ」を読み解いていこう。

①「語り」の時制と被写界深度

原作「あなたの人生の物語」の語りにはある仕掛けがあって、物語は時間軸上のある一点(ムーンなんとか)を基点に、そこから過去の出来事は過去形、そこから未来のことは未来形または現在形で書かれている。

物語は、基点を描写した後に、過去の出来事を時系列順に回想し、最後に基点をもう一度描写する、という形式をとっており、その合間合間に時系列的にシャッフルされた未来のエピソードが挿入される。 未来について書かれた章の多くには、「I remember when you are fourteen ~」というようなふつうではちょっと考えにくい奇妙な文が含まれているなど、原書には時制のはっきりした言語ならではの仕掛けも見ることができるようである。

この過去と未来の時系列の変化は基本的に章立てによっても明示されており、章と章の間には二行の改行がなされている。

映画でも冒頭と最後には基点が描写され、原作と同じような構造で未来のエピソードが挿入される。

f:id:xcloche:20170610211047p:plain 基点となるカットの構図

しかし、時制は小説のように「語り手」がなければ存在できない。長ったらしいモノローグを使うかわりにヴィルヌーヴが用いた奇手が、フォーカスの活用だ。
映画「メッセージ」には、背景がぼやけて画面手前のルイーズにだけはっきりと焦点があった被写界深度が浅いカットが多用される。注意深く観察すると、この演出が用いられるのは過去と未来のカットが転換するポイントであるのがわかる。

ボカされた背景によってルイーズの主観が強くイメージされ、(超時間的な)ルイーズの主観を通して、時間軸上のさまざまなシーンが結合されるのである。

②変分原理と対称性

原作での変分原理を用いたヘプタポッドの認識様式に関する仮説は映画ではまるきり出てこない。原作での説明は次のようなものだ。

人類の、そしてヘプタポッドの祖先がはじめて意識のきらめきを得たとき、両者は同じ物理世界を知覚したが、知覚したものの解析の仕方は異なっていた。最終的に生じてきた世界観の差は、その相違の究極的結果だ。人類は逐次的認識様式を発達させ、一方ヘプタポッドは同時的認識様式を発達させた。われわれは事象をある順序で経験し、因果関係としてそれを知覚する。“それら”は、あらゆる事象を同時に経験し、その根源にひそむ目的を知覚する。最小化、最大化という目的を。

映画では彼らの認識によって「時間の門を開く」といった表現がなされていた。
ヴィルヌーヴは原作とは少し異なった解釈に基づく演出を導入している。それが対称性である。

「変分原理」は物理学の用語で、作用の時間積分の変分がゼロになるになることを要請するが、始点と終点について対称で、過去から未来について考えていた問題を未来から過去についての問題に交換しても選択される経路は同じになる。そういう意味で、この対称性は変分原理のひとつの側面を捉えていると言えるだろう。

これは必ずしも原作の「同時的認識様式」を意味するものではないが、「メッセージ」では「時間的な順方向と逆方向を区別しない」というふうに「同時的認識様式」が解釈されているように思われる。

映画「メッセージ」にはさまざまなシーンでこの始点と終点の対称性が強調されている。

最も象徴的なのは、娘の名前「HANNAH」だろう。この名前については、作中でも明示的に「H, A, N, N, A, H, 反対から読んでも、H, A, N, N, A, H」と、対称性が強調されるシーンがある。

①で示したように、映画のはじめと終わりに同じカットを用いているのも対称的である。加えて、このカットでは左右対称な構図が用いられている。

ヘプタポッドたちとのコミュニケーションのシーンでも対称形はあらわれており、横に長いガラスの向こう側とこちら側で、ヘプタポッド・人・文字・人・ヘプタポッドが整然と配置されるカットは何度も用いられている。

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一番ヤベェな〜となったカット。ヘプタポッドと人間の手が点対称に配置されている。

また、「メッセージ」は誕生と死も対称に描いている。

この描写は冒頭五分ほどの、ハンナとの思い出のシーンの中にある。ハンナが産まれたとき、ルイーズは看護師が抱えているハンナを腕に抱こうと "Come back to me, come back to me." という台詞を発する。その少し後のカットで、亡くなったハンナが病院のベッドに横たわっているシーン、ここでもルイーズは "Come back to me, come back to me." という台詞を発している。

対称性をもった名前の子どもについて、誕生と死に際して同じ台詞が用いられているのである。

考えてみれば、「死の過程(Death process)」という表現も奇妙である。一般的に死は一点的なイベントであって過程ではない。さまざまな文字とそれに対応する意味が映し出されるカットでは、「死の過程」ではなく「死」自体を意味する文字も表示されていたのも興味深い。

③シーンの同時性

さて、②では原作における同時的認識様式が、映画では時間の対称性という観点で捉えられていたという話を扱った。
この節では、それ以外の方法での同時的認識様式の演出について述べる。

はじめに確認したように、原作と映画では娘の死因が異なる。原作では転落死だったのが、映画では難病に変更されているのである。
この「転落死」という死因が原作においてどのような意味をもっていたのか考えてみよう。

この理由のヒントは原作の次の記述に見つけることができる。

あなたの幼児期を通じて、わたしたちはそんなふうな場面を数かぎりなく反復することになる。あなたの反抗的な気性を考えれば、あなたを守ろうとするわたしの努力がクライミングへの愛着を育んでしまうのだと信じてもいいような気がする。最初は児童公園のジャングルジム、つぎは近所の緑地帯に生えている木々、そしてクライミング・クラブの岸壁、最後は国立公園の断崖絶壁——

死因である転落と、娘の他の「転落」のイベントを並べて思い出すシーンによって、同時的な認識が演出されているのである。

ここで、ヴィルヌーヴは、似たイベントを一度に思い出すという方向性ではなく、まったく別の時間のシーンに視覚的な類似性を持たせることで同時的な感覚を演出した

映画の冒頭と最後に映る大きなガラスの窓は、ヘプタポッドの宇宙船内のガラス窓と対応するように描かれている。わかりやすいのが、ルイーズが外にいるゲーリーを呼ぶためにガラス板をコツコツ叩くカットだろう。このシーンは、ヘプタポッドがルイーズに警告するためにガラスを叩くカットと対応している。
また、娘のハンナが地面に触れて遊んでいるシーンがあるが、このときの指の動きはヘプタポッドの歩行に似たものになっている。

視覚的に似たイメージが異なる時間のカットに挿入され、別の時間軸の出来事がひとつに統合されるのである。

むすび

原作小説がテキストでやったら楽しいことをたくさん詰め込んでいたのに対して、映画も負けず劣らず映像と音でできることを持ってきていて、同じ主題であるとは言えないものの、結果的には見るべきところの多いいい映画になっていたのではないかと思う。
特にはじめの数分間は白眉で、一度観終わったあとで観るとくるものがある。物語の主題と絡んだ月並みな意見だが、結末を知った上でもう一度観てこそ、という部分があるように思う。観ましょう。

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11/11に公開はわざとか?

最後に、気になることメモ

  • 原作にはフィクションの人物が「パフォーマティヴ」と言うことによるメタフィクショナルな楽しみがあった。好きな表現だったのでなくなっていたのが残念だったが、映画は文字通り演技されるものなので、このシーンをスクリーンでやっていたらくどすぎたかもしれない。
  • カナリアの声が地球側なのに異様なまでに無機質で、ヘプタポッド側の音のように聞こえたのがよかった。
  • ②であげた点対称なカット、娘を失うルイーズとアボットを失うコステロ、ヘプタポッドのある目的のために来ているかのように聞こえる発言、ガラスを叩く動き、ヘプタポッドに似た指の動きなど、人間とヘプタポッドを並置しようとしているようにも思える演出が多かった。これについては十分な考察ができなかった。
  • 特異な文字を書く生物が手の形をしているのはハチャメチャにいい。