serial experiments:断片化した物語の可能性

物語の順序

 映画やドラマ、小説などの物語には「見る順番」「読む順番」がだいたい決まっていて、ふつうはその順番に従うのが一番楽しいようなつくりになっている。だいたい、一話の後に二話を見ること、一巻のあとに二巻を読むのがよい。
 たとえば推理小説の場合も、後ろのほうの解決篇を覗いてから読むよりは、素直に頭から読んだほうがよいだろう。最初から犯人がわかっているほうが体験として楽しくなる場合は「倒叙もの」といって、クリエイターのほうで後ろのほうの記述を前にエイヤッと持ってきてくれることもある。いずれにしても、私たちに供されるのは「推奨順序順」にきれいに整えられた作品である。

 今回の記事では、この順序構造を意図的に破壊することで、新しい物語の可能性を拓いた作品をたどってみることにする。

「読む順序」の歴史(てきとう)

 文学の世界で「読む順序」の話をするなら、フリオ・コルタサル『石蹴り遊び』の話は避けて通れない……ようなのだが、私は読んでいない。読んでいないので、避けて通りたい。

 木原善彦『実験する小説たち』に、『石蹴り遊び』含むさまざまな実験小説が一覧されているので、この本の記述に頼って、紙媒体での本で「読む順序」についてどのような試みがなされてきたのかを軽く見てみよう。

 『実験する小説たち』は、実験の方向性に応じて全18章にわけたトピックのそれぞれに「使用テクスト」として典型的な作品を掲げ、その作品についての解説と関連作品を挙げる形式をとっている。今回の順序に関する話題だと、第4章「どの順番に読むか」(使用テクスト:『石蹴り遊び』)と第18章「どちらから読むか(使用テクスト:『両方になる』)」を参照すればよさそうだ。

 コルタサル『石蹴り遊び』は、章単位での「(複数通りの)読む順番が定められた」小説である。『石蹴り遊び』には、全155章のうち第1章から第56章までを順番通りに読む(57章以下は読まない!)「第一の読み方」と、冒頭にある「73-1-2-116-3-84-4-……」といった数字の並んだ「指定表」の順に章を読む「第二の読み方」がある。それぞれの読み方は「第一の物語」「第二の物語」と呼ばれているので、これは同じテキストを別の順番で取り出すことで別の物語を生み出す試みとも言える。
 とはいえ、物語は1-36章と37-56章、56-155章で第一部・第二部・第三部にわかれていて、「第二の読み方」は基本的には「第一の読み方」に散発的に「第三部」の章が挿入される、という感じで、あまり内容がガラっとかわってそれがエンタメ的に面白い、というわけでもないようだ。第三部はだいたい雑多な文章な寄せ集めになっているそうで、「オリジナル版とディレクターズカット版を抱き合わせにしたような本」という比喩も紹介されていた。
 ただし、もちろんただヘンなことをやっただけというわけではなく、「『石蹴り遊び』がこのような構成になっている理由」もきちんと考えればちゃんとあるようである。『実験する小説たち』に面白げな解説があるが、なにせ私は本編を読んでいないし、これ以上はよしておく。キミ自身の目でたしかめよう!

 第18章のアリ・スミス『両方になる』のほうは、相互補完的な二部(説明のため、仮にAパート・Bパートとする)にわかたれた長編小説である。変わっているのは出版形態で、「Aパート→Bパート」の順のものと「Bパート→Aパート」の順のものがそれぞれ半々の割合で印刷され、全く同じパッケージで書店に並べられたということだ。
 何も知らずに手に取った読者のレベルでは、いつものように持っている書籍の順序が「推奨順序」だと思って頭から読むが、出版のレベルでは実はどちらの順序も等価、というのがこの本の異質性である。お話としてもおもしろく、作中にも「卵が先か、鶏が先か」などといった自己言及的な比喩などがあってタイトルもうまくはまっているとのこと。
残念ながら未訳。

「読む順序」の破壊という観点では、『石蹴り遊び』も序文で「第一の物語」「第二の物語」と名付けている以上、ふたつの物語に序列が存在してしまう(たとえば、多くの読者は第一の物語を読んでから第二の物語を読むだろう)し、『両方になる』も読者のレベルでの体験はふつうの本と同じである。

 それぞれのエピソードに順序がなく等価であることを演出するために、綴じてないバラバラの紙が入った箱を本として販売した例もあるようだ。
B・S・ジョンソン『不運な人々』で、「いくつものイメージが一斉に頭にわき上がってくる」ことを表現するため、「最初」と「最後」の間の25枚の紙を「好きな順番で読んでよい」としてこの手法で出版したとのこと。

 と、こんな感じでいろいろ工夫はなされてきたのだが、「紙」というメディア自体が、コンテンツ内で別項目を参照するのはめんどくさいし、順序構造を工夫するのにも制約が多いなど、実験的なことをするには少し窮屈である。

 これから何の話をはじめるかはもうおわかりだろう。デジタルメディアの登場だ。

serial experiments lain

 「serial experiments lain」は1998年にPIONEER LDCから発売されたPS1のゲームである。同時展開されていたアニメともども謎のカルト的な人気があって、出荷数に比してなぜか名前がよく知られている。やっかいなことに、入手困難かつゲームアーカイヴスにもないので、運がよくないとプレイすらできない。

PSストアの紹介ページ。何もない
http://www.jp.playstation.com/software/title/slps01603.html

 登場人物は主に「岩倉玲音」という少女と「トーコさん」という精神科医の二人。玲音はどうも心に問題を抱えているようで、トーコさんにカウンセリングを受けている。カウンセリングの記録や彼女たちの日記がデータとして電脳空間(?)に散らばっていて、これを閲覧していくのが serial experiments lain というゲーム(?)である。

 「カウンセリングの記録」「玲音の日記」「トーコの日記」などはすべて音声記録の形で、尺も短くて数秒、長くて2分程度の断片である。
 これらの「データ」が全部で2〜300個ほどあって、(基本的に)どの順番でアクセスしてもいいようになっている。
 データは(基本的に)時系列順に並べられていて、時系列をたどるようにアクセスすることが可能である。また、それぞれのデータには二つずつリンクがついていて、話題として関連するデータへ飛べるので、そうやってトピックを軸にたどる方向もクリエイターは意図していたようである。
 が、わざわざ順序のついたものをバラバラに鑑賞する意味は薄いし、インターフェイス諸々の問題からストレスでもある。多くのプレイヤーは「時系列の順に」物語にアクセスしたことと思う。私もそうした。

 結局のところ、lain における物語の断片化と「好きな順序に読んでいいよ」という一応のスタンスは、「プレイヤー自身の手によってデータを閲覧すること」を印象づけるメタフィクショナルな演出として使われたものだ。この演出は強烈で非常に印象的なものだが、「順序を崩せる」とはいえ順序は実際的には依然と存在するし、データ同士を結びつけるリンクについても、あまり有意味な演出効果はないように見える。

「順序」の非在化

 wiki読むのって楽しい! という経験はないだろうか?
 Wikipediaのおもしろ記事に貼られたリンクから別の記事に飛んだらまたおもしろ記事だったり、MTG wikiで関連カードとの差違やメタ戦術を読んだり、TYPE-MOON wiki を覗いてみたり、SCP財団のページを読みあさったりなどなど、私も多くの時間をwikiで無為につぶしてしまった。
 wikiは「興味のおもむくままにリンクをたどって何かを読む」ことを許容するし、それに特化した形式だとも言える。wikiの形式はただそれぞれの記事がリンクでつながっているだけで、そこに順序構造は存在しない。

 このwiki形式で小説を書いちゃった(!)のが、酉島伝法「棺詰工場のシーラカンス」。作者のブログで公開されている(というか、ブログのほとんどの記事がこれ)。

最初に書かれた「【○】卵」の記事。ここから適当にハイパーリンクをたどって読む
blog.goo.ne.jp

 謎の生き物たちの大量のダジャレにまみれた生態や歴史が書かれた作品で、おそらく私はすでに8割くらいの記事を読んでいるのだが、いまだにかなりの部分が謎でどうなっているのかわからない。たぶん今度また挑戦すると思う。

リンクをたどっていく発想は往年のゲームブックにも近しいものがあるが、「展開を選択する」のではなく「文章中の適当な単語のページに飛ぶ」のはよりザッピング的というか、順序無視的な性格が強くて、ポテンシャルを秘めたブルーオーシャンな形式のように思う。wiki小説、他にもあったら教えてほしい。

Her Story

 2015年になって、「断片化したデータに順序づけがなく(正確には、順序にしたがってデータにアクセスする手段がなく)」かつ「ユーザーが任意の順番でデータにアクセスすること自体をゲーム性として成立させた」革新的なゲームが登場した。

store.steampowered.com

 「Her Story」は、およそ300個ほどの実写ビデオクリップで構成されたゲームである。どのクリップにも一人の女性が映っていて、カメラに向かって何かを話している。言ってしまえば、Her Story のゲーム内容は「好きな順番でビデオクリップを見る」だけなのだが、この「好きな順番」というのがクセモノで、ここに未知のゲーム体験がかくれている。

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Steam公式のページより引用。こんな感じの画面がえんえん続く

 300個のビデオクリップは「データベースに保存されている」ことになっていて、データに直接時系列順にアクセスするようなことはできない。かわりにこのデータベースは任意の言葉で「検索」することができて、この「検索」にかかった動画を再生できるのである。

 ゲームを起動すると、初期状態では「殺人」という言葉が検索されている。検索結果には「殺人」という言葉を発言に含むビデオクリップが並んでいて、まずはこれらを再生していくという案配である。
これらの動画を見るとすぐに、どうやら彼女が警察署内にいるらしいこと、何らかの事件に巻き込まれているらしいこと、などがわかってくる。プレイヤーは「この事件について詳しく知るには何を検索すればよいか?」を考えて、別の言葉(たとえば「犯人」とか)を検索していく。これを繰り返しているうちに物語の全貌が明らかになっていく。

 このゲームのうまいところが、「(古いマシンなので)検索結果を5つまでしか表示できない」こと。たくさんの動画がヒットするような単語でも、(おそらくタイムスタンプの古い順で)上位5件の動画までしか検索結果画面に並ばないようになっているのだ。むやみに一般的な言葉を検索するだけでは核心部分の動画を見ることはできず、頭をひねってうまい検索ワードを考えるのは、既存のゲームで体験したことのない感覚だった。

 Her Story というゲームは、断片化したビデオクリップを関連性をヒントにつなぎ合わせ、プレイヤー自身の手でストーリーとして再構築するゲームである。まあ lain もそうだと言われたらそう言えなくもないが、これをゲーム性として達成したのは偉業といっていいだろう。(そもそも lain はゲームを志向していないようで、公称も「アタッチメントソフトウェア」)。間違いなく、断片化した物語の形式の最前線のひとつのように思う。

 主演女優の怪演も見どころで、何より体験として新しいので、ぜひプレイしてみることをおすすめする。Steamで600円くらいで売ってる(18/06/25現在、サマーセールで200円くらいになってる)。プレイ時間は2時間くらい。

断片化した物語の可能性

 物語の断片化の一般的な性質として「読者が自分でつなぎ直さなければならない」ことがある。「棺詰工場のシーラカンス」や Her Story は、リンクや予測される関連語彙のかたちでうまく「読者の好きな方向から物語を再構築して読んでもらう」作品だ。この読者依存な物語順序というのは、気ままに調べ物をしているときたまに感じるパズルのピースがカッチリはまる感触といおうか、あまりフィクションで見かけたものではなかった。 デジタル時代の文芸がもっと盛んにいろいろ試みていい分野のようにも思う(ゲームに片足突っ込んでいるが)。

 ついでに。ソーシャルゲームのシナリオはかなり断片化されているので、それを利用したような仕掛けのものがでてきたらおもしろい。ソシャゲーは数が出ている割に観測範囲では実験的な作風のものがあまりない気がする(大金が動いているのだからそれはそうな気もする)ので、オモシロなものを発見したらぜひ教えてほしい。

物語を俯瞰する目:マルチプレックスのすすめ

『エンパイア・スター』読んだか?

 『エンパイア・スター』というのは、1966年にアメリカのサミュエル・R・ディレイニーが書いた中編SFである。一文要約すると、辺境の惑星で暮らしていた青年がある日「エンパイア・スターという星にメッセージを届ける」使命を託され、八本足の猫を道連れに宇宙を冒険する、という内容の話。ものごとを見る視座(後述する、シンプレックス・コンプレックス・マルチプレックス)がひとつの主題となっており、物語中で示されるこれらの視座と物語の構造がきれいに照応する、メタフィクショナルにも非常にすぐれたディレイニーの代表作である。

 日本では1980年にサンリオSF文庫から翻訳が出版され(米村秀雄訳)、1983年には早川書房の中短編集『プリズマティカ』に採録(岡部宏之訳)、さらに2014年になってディレイニーの全中短編をまとめた国書刊行会の『ドリフトグラス』でまた別の訳(酒井昭伸訳)がついた。出版社・訳者をまたにかけて三回も翻訳・出版されたことになる。

 ただし、上であげたような紙の本で読もうと思うと、ちょっとばかりハードルが高い。
 サンリオSF版はプレミア価格がついてて3000円くらいするくせにだいたい古くてばっちいし、『プリズマティカ』はそれよりさらに高いプレミアがついていて手に入らないし、新刊で入手可能な『ドリフトグラス』はディレイニー全部入りにしたせいでクソ分厚くて気軽に読めなくてお値段もけっこうする(『ドリフトグラス』は他におもしろい話がいっぱい入ってるので余裕があったら読んでほしい)。図書館に置いてあるなら借りて読めばいいけど、手に入れるのはちょっと大変……という状態。

 そんなあなたに朗報! なのが、PDFで無料で読めちゃう! こと。
 『エンパイア・スター』で検索すると、上から三つ目くらいにサンリオSF版のPDFがヒットして全文が読める。これは山形浩生(翻訳家・評論家)が「プロジェクト杉田玄白」の名前でやっている翻訳文学無料公開プロジェクトのものである。ディレイニーはまだ存命だし、これがどういう経緯で公開されているのかはよくわからないが、まあ著名人の山形浩生が数年前から堂々と公開していて特に文句も言われていないわけなので、たぶん大丈夫なやつだと思う。

https://cruel.org/books/empirestar/empirestar.pdf

 どれでもいいのでおすすめなのでとにかく読んでみるといいと思う。

シンプレックス・コンプレックス・マルチプレックス

 この記事の本題は、この『エンパイア・スター』のテーマである、「ものごとを見る三つの視座」、「シンプレックス・コンプレックス・マルチプレックス」についてである。それぞれ「単観、複観、多観」という日本語の訳が当てられている。

 作中で明確な定義が与えられているわけではないが、誤解をおそれずにそれぞれの視点を概説すると

といったところだろうか。

 『エンパイア・スター』の物語は、主人公が持ち運ぶ宝石(宝石型の宇宙人)の手によって、明示的にマルチプレックスな視点で語られる。

 冒頭に次のようにある。

私は"宝石ジュエル"。
わたしは多観マルチプレックスな意識を持つ。これはつまり、さまざまな視点からものごとを見られるということである。わたしの内部構造における振動パターンの倍音列。それが持つ働きのひとつこそは、この多観マルチプレックス性にほかならない。ゆえに、これよりわたしは、文学の世界でいうところの〈全知の観察者〉の視点から、この物語をじっくり語っていくことにしたい。

 つまり、時空を超越した、物語全体を俯瞰的にみる特殊な視座からの語りなのだ。

エンパイア・スターの時空構成

 『エンパイア・スター』の作中には、物語の本筋の時の流れと逆行するようなさまざまな時の流れがあり、それらが相互に複雑に絡み合っている。

 時間の流れの逆行やズレは宇宙の時空のゆがみによって生じるということになっていて、そのため熟練の宇宙船乗りたちはマルチプレックス的なものの見方をするために、あまりこうした因果関係のゆがみに頓着しない。話が噛み合わないと思ったら「こちらにとっては未来だけど向こうにとっては過去」だったから、ということはままあるし、ある人物にいたっては、主人公と再会するたびに若返っている(その登場人物が若いときに旅のおわり頃の主人公に会い、歳をとってから旅のはじめ頃の主人公に会ったているというだけの話)。

 かつ、これらの要素は矛盾なく緻密に構成されている。

マルチプレックスのすすめ

 そういうわけで、『エンパイア・スター』を読むとき、主人公の冒険を時間に沿ってトレースするようなシンプレックスな視点からしか見ないのは、非常にもったいない読み方である。この作品は「物語を俯瞰して見ることで、大きな幾何学構造が見えてくる」もので、マルチプレックスな視点で見てはじめて本性をあらわすのだ。

 ここからは、物語の筋を追う視点からズームアウトして見ることで新たな構造を見せる作品を「マルチプレックス的」と呼ぶことにして、そうした視点で楽しむ物語をいくつか訪ねてみようと思う。

円城塔「墓標天球」ほか

 構造が「エンパイア・スター」に非常によく似ていて整理されているのでまずもってきたのが円城塔「墓標天球」。この作品は円城塔の短編集『後藤さんのこと』に収録されている。

 「墓標天球」には時間軸が三つあり、それぞれの時間軸は輪になって循環している。 循環する三つの時間軸の上には三人の人物が存在しており、「時間軸が交差」したとき出会う(場合によって、ある視点人物から見たとき他の視点人物が再会したとき若返っている、ということもある)。

 ある意味で、「墓標天球」は『エンパイア・スター』の構造を幾何学的にきれいな形にリファインして、そこから異なるメッセージ/詩性を見いだした作品である、と言ってよいと思う。

 円城塔は、他にもいくつもマルチプレックスな作品を書いているマルチプレックス・作家である。そもそもデビュー作の『Self-Reference ENGINEからして引きで見ないと何言ってるかわからないし、「Boy's Surface」にいたっては、マルチプレックスの概念そのものが主人公みたいな小説である。

 非常に風変わりな例としては、二次元的に書かれた小説「タンパク質みたいに」(テキストが一本線でなく、無数の分岐や合流をもっている)が特にマルチプレックス的だろうか(単行本未収録)。この作品はタンパク質のフォールディング(巨大な分子がどのように変形しうるか)をテーマにしており、分岐を適当に選んで読むことで、選んだ分岐に応じたさまざまな "フォールディング" が展開されていく。

 これは円城塔やくしまるえつこのコラボ企画として書き下ろされたもので、アルバム「Flying Tentacles」内でやくしまるえつこがこの作品を朗読している(「ゲノムによるタンパク質の合成時に発生するポリペプチド鎖の立体折りたたみ構造(フォールディング)を詩と音に秩序立てて対応させた作品」というすごい説明がある)。

朗読が行われたイベントの様子。小説「タンパク質みたいに」の画像がある
http://www.asahi-net.or.jp/~li7m-oon/thatta01/that331/kyofesu.htm

 やくしまるによる「朗読」は単なる朗読でなく、編集によって分岐を同時に読む(分岐した時点から朗読が二人になり、合流した時点でもとの一人に戻る)などの異常な演出がなされ、「はじめはランダムにゆらぎながら展開されていたタンパク質が、徐々に秩序だてて解きほぐされていく」感覚をうまく表現した、マルチプレックスなものになっている。

テッド・チャンあなたの人生の物語

 以前の記事で映画版との比較考察を行ったこの作品も、マルチプレックスに近いものの見方、「同時的認識様式」をテーマにしたものだ。

xcloche.hateblo.jp

 認識のまったく異なる生物とのファーストコンタクトを書いた言語学SFであるこの作品は、おかしな時制(I remember you will〜:私はあなたが(未来に)〜するのを思い出す)を用いて語られており、だんだんとその理由が明らかになっていくという構成になっている。読了後、マルチプレックスな視点で作品を俯瞰してみることをおすすめする。

 同名の作品集『あなたの人生の物語』に入っている。短くまとまった中編で読みやすいのでぜひトライしてみてほしい。

プリズマティカリゼーション

 マルチプレックスな視点をゲーム化した(!)ヤベーやつが、「Prismaticallization」(1999年、アークシステムワークス)だ。

 これはPS1で発売されたアドベンチャーゲームで、「マルチプレックスな視点からの世界への介入」をゲーム性としてきれいに成立させた非常に稀有な作品である。とにかく名前がクソ長いのでファンの間ではP17nと略されることになっている(Pとnの間に17文字あるから)。
 ゲームアーカイヴスで販売しているので、PS3PSP/PS vita があれば気軽にプレイできる。

https://store.playstation.com/ja-jp/product/JP0036-NPJJ00078_00-0000000000000001store.playstation.com

ゲームのストーリーを引いてみよう。

 主人公・射場荘司は、高校3年生。幼馴染みの同級生・明美に誘われて、夏休みを避暑地のペンションで過ごすことになった。
 荘司は人生に明確な目的が持てず苦しみながらも、苦悩するインテリ青年という自己像に酔うばかりで、何も行動を起こさず怠惰に過ごしている。ペンションで出会うヒロインたちも、一見幸福そうではあるものの内面にはそれぞれに苦しみを抱えているが、荘司はその兆候を見過ごし、彼女たちの苦しみも終わらない。
 荘司は、ペンションの近くの森でプリズムのような形状の不思議なオブジェを偶然拾う。このオブジェにより、荘司たちは同じ一日が、いつ終わるとも知れず繰り返される循環に囚われる。
 オブジェの影響により、繰り返される一日は、しかしどこか少しずつ違ってゆく。循環から解放される日はやってくるのだろうか。
-Wikipedia(一部省略)

 要は、謎の物体を拾ってから夏のペンションでの一日がえんえんと繰り返されるようになって、これからぼくたちどうなっちゃうの〜!? てな感じである。

 ところが、全編通して基本的にキャラクターたちにはループの自覚がない。 主人公たちはループを自覚しないので、当然ながら特に抜けだそうという意思もないし、これからぼくたちどうなっちゃうの〜!? と思うこともないし、ただ普通に夏のペンションでの一日を過ごしていて、ある時間になるとプツリと世界がおわって何事もなかったように次のループがはじまってしまう。

 キャラクターたちは記憶を引き継ぐこともないので、何もしなければキャラクターたちは1周目とまったく同じ動きをとることになる。

 この世界へプレイヤーが介入できる唯一の手段が、作中アイテムプリズムを用いた「状態の記録」と「状態の解放」である。

 たとえばある周回で作中のキャラクターが「石を動かす」行動をとったとする。このイベントの後、画面上に

状態『石を動かした』を記録しますか?

という奇妙な選択肢が出現する。

 ここで「はい」を選ぶと、「状態『石を動かした』」がプリズム内にストックされる。(その後は何事もなかったように物語が進行する)。

 こうした「状態」をストックしていると、次の周回で

状態『石を動かした』を解放しますか?

 という選択肢が登場するようになる。  ここで「はい」を選ぶと、この2周目の世界に「石を動かした」情報が上書きされ、この世界でははじめから石が動いていたことになる

 1回目の世界では「石を動かす」アクションが実行されたところが、2回目の世界では「石ははじめから動いていた」ので動かす必要がないわけで、こういった微細な変化によって物語は微妙に展開を変えていく。展開が変わるとまた新たな「状態」を記録/解放できるようになり、そこからまた新たに物語が展開される仕掛けである。

 数ある「状態」を組み合わせてキャラクターたちの行動を変化させ、見たい世界/まだ見ぬ世界を探求するゲーム性はパズルに近く、少し状態を変えるだけでときに劇的に世界が変化する様子は万華鏡のようでもある。

 実際のところ、プレイしているとこの作品にはどうも『エンパイア・スター』をリスペクトしていると見えるフシが多々あって、そもそもタイトル自体「エンパイア・スター」の入っている『プリズマティカ』からとっているようである。

 プリズムをいろいろな角度から覗き込んで見える景色の色彩の変化を楽しむという感じのプレイフィールで、世界をさまざまな角度に変化させて遊んでいるうちに状況の全貌が明らかになっていく感触はまさに、マルチプレックスだ。

おわり

 一歩引いて俯瞰した瞬間に急に巨大な構造が見えてくる感覚はどうにも神秘的で、クセになる。

人が「キャラクター」になる日、キャラクターが「人」になる日

VtuberとMR(Mixed Reality)ライブ

 最近Vtuber(バーチャルユーチューバー)にドハマりしていて、毎日のように更新をチェックしたり生放送を聞いたりしている。大変ですね。

 ……という感じでいたところに、つい先日アイドルマスターのMR(Mixed Reality)ライブイベントに参加する機会があって、3Dで動きまわり、またリアルタイムに会場の様子に反応するヴァーチャルなアイドルの姿を目の当たりにした。詳細は後述するが、これはかなり異常な体験だった。

 ちょっとした恐怖を感じたので大仰なタイトルにした。

Vtuberの現在

 今や2000を優にこえると言われるVtuberについて一絡げに語ることは難しいが、メインストリームの流れを概観すると、だいたい三つの時期に区分することができるかと思う。

  1. キズナアイの登場:
    キズナアイが史上初「バーチャルユーチューバー」を名乗る。
    初期の動画は(バーチャルでない)ユーチューバーに似た傾向の動画(~やってみた、など)が多い。
    スクリーンキャプチャしながらアキネイターなどのWebサービスを実演する形式の動画が定着。

  2. Vtuber四天王(ミライアカリ・シロ・ねこます・輝夜月)らの登場:
    徐々に人数が増え、Vtuber界が活気づいてくる。
    ゲームのプレイ動画が流行しはじめる。
    この時期のゲーム実況動画は、撮影後、編集を経て公開する形式が一般的。

  3. 2DVtuberも登場、群雄割拠の時代
    Vtuberが爆発的に増加する。
    これまでは3Dモデルをモーションキャプチャするのが主流だったところに、FacerigとLive2Dの組み合わせ、またiPhoneXのAR機能を使った「にじさんじ」などのフェイストラッキングのみの低コストな2DVtuberが増えはじめる。
    この頃から動画の配信形式として、(ゲーム実況・雑談などの)ライブ配信が流行しはじめる。
    ライブ配信のプレイ動画をそのままアーカイブとしてアップする形式が定着。

質的に異なる二つの「Vtuber」

 全体の流れを追うと、昨今のVtuberの興隆には、低コスト化とそれに伴う参入障壁の低下が大きく寄与していそうである。

 また、②と③の間には「配信者が用いる主なメディアが、投稿動画かLIVE配信動画か」という大きな断絶が存在している。
 この断絶については思うところがある人が多いようで、古参のVtuberファンの中には、3Dモデルや動画編集にくらべて低コストで手間がかかっていないLIVE配信者をこころよく思わないというような意見もあるようだ。

 同じVtuberという括りで扱われていること、近ごろでは従来のバーチャルユーチューバーも積極的にLIVE配信を行うようになってきたことなどから状況が錯綜しているので、従来式の編集動画投稿型の配信者をバーチャルユーチューバー、LIVEが主体の配信者をバーチャルライバーと呼んで区別してみることにしよう。

 編集が可能であるがゆえに、場合によっては綿密な台本まで用意するプロジェクト型のバーチャルユーチューバーが「(設定された)キャラクター」的にふるまいがちなのに対して、リアルタイムに流れるコメントへの反応やハプニングへの対応をするバーチャルライバーは、より配信者に属人的な傾向があるようである。

「LIVE配信」の効能

 このようなバックグラウンドをあわせて考えると、リアルタイムの音声ストリーミング/モーションキャプチャ/フェイストラッキング技術を使ったVtuberのLIVE配信には、まったく反対の二つの性質があることが浮かび上がってくる。

 ひとつは、すぐ上で述べた、生の人間をキャラクター化する過程、つまり現実を仮想化する過程としての性質である。
 キャラクター化の恩恵には、視聴者層の拡大や、配信者の匿名化が可能であることなどがあり、これによって野に眠っていた多くの才能がざくざくと頭角をあらわしてきているようだ。こちらは主にバーチャルライバーのほうに特に顕著な傾向のように思う。
 そもそもの話、ぽんぽこ24(2018/05/03~2018/05/04にチャンネル「甲賀流忍者ぽんぽこ」で行われた24時間コラボ企画)のコーナー「Vtuber有識者会議」でも言及されていたように、バーチャルライバーの隆盛は従来のバーチャルユーチューバーの系譜というよりは、(生配信はやってみたいがフィルタを通してキャラクター化したほうがやりやすい配信者/実在人物の生声配信よりキャラクターのフィルタを通した配信を好む視聴者)の需給の一致によるものが大きいように見える。
(ただし、こちらは決してLIVE配信に限った話というわけではない。)  こちらの側面については語るべきことがたくさんあるが、今回の趣旨とはすこし外れるので、また別の機会にあたることにしたい。

 そして、こららの技術がもつもうひとつの側面が、すでに確立したキャラクターを現実の時間スケールに飛び出させる仕掛け、いわば、仮想を現実化する過程としての性質である。
 「そのキャラクターがどのような存在か」ということが視聴者によく周知されている場合、LIVE配信によってキャラクターと視聴者の時間軸が共有されることによって両者の関係性は劇的に変化する。彼らはキャラクターでありながら、我々の行動に対してリアルタイムに応答するのである。

 キャラクターをリアルタイムに現界させる技術がもたらす認知への強烈なハックは、Vtuberではない他の世界にも革命をもたらした。
 さあ、もう一つのリアルタイム・音声ストリーミング/モーションキャプチャ/フェイストラッキング技術の結晶、THE IDOLM@STER MR ST@GE!! MUSIC GROOVEの話をしよう。

THE IDOLM@STER MR ST@GE!! MUSIC GROOVE

 THE IDOLM@STER MR ST@GE!! MUSIC GROOVE、というのは2018年の5月に横浜のDMM VR THEATERで行われたアイドルマスター初のMR(Mixed Reality)ライブイベントのことである。聞き覚えのない単語がたくさんあるのでひとつずつ順を追って説明する。

 アイドルマスターと一口に言っても、最近ではシンデレラガールズ・ミリオンライブ・SideM・シャイニーカラーズなどなど手広く展開していて、総数も軽く500人を超えそうな一大コンテンツである。
 THE IDOLM@STER MR ST@GE!! MUSIC GROOVEではその中でも元祖(765ASと呼ばれる、アイドルマスターSPまでに揃ったメンバー)の13人が出演するライブイベントである。PS4コンシューマゲームがあるために、彼女たちにはアイドルマスターシリーズの中で一番デティールの優れたリッチな3Dモデル・3Dダンスのモーションデータが存在している。

 DMM VR THEATERは、ハーフミラーによって3Dオブジェクトを実際に存在しているかのように見せる「ホログラフィック映像」を売りに2015年に作られた新しい劇場で、これまでにも演劇やライブなど、3D投影を活かしたさまざまなイベントが開催されている。

http://realsound.jp/movie/2017/09/post-113222.html

 要は3Dオブジェクトを実空間に投影できるすごい劇場、と思っておけばだいたいOK。

5/12のライブ体験

 5/12の夜、如月千早センター回、このMRライブを実際に体験した。
 VRのイベントもアイドルマスターのイベントもこれが初めてだったので、いったいどのようなものになるのかなと気もそぞろにメロンソーダをすすっているとまもなくイベントがはじまり、あたりの人々が立ち上がったのであわてて一緒に立ち上がった。ステージ上では3Dで投影されたアイドルたちが踊りはじめていた。

 3Dモデルがステージ上を動いている! という感動はあるものの、3Dモデルの見覚えのあるモーション(多少の調整はしているだろうが、おそらくPS4のダンスモーションからの流用)と聞き覚えのある音源に、初見の印象は決してよいものではなかった。どうやら標準装備らしい光る棒を持っていなくて気まずかったのもあって、私は会場の端のほうの席でいまいちノリきれないまま、こんなものかと重いながらまわりにあわせて体をゆすっていた。
 光学装置で投影している以上しかたない面もあるとは思うものの、曲と曲の間の暗転でアイドルたちの姿がフッと虚空に消えるのも気になる。
 3Dのアイドルがステージ上を走り回っていたのはなるほど目新しかったが、それはあくまでよい再生環境を使った見覚えのある動きの再演に過ぎず、それは決して私が期待していた「ライブ」ではなかった。

リアルタイム・キャラクター

 変化があったのは10曲ほど終えたあと、MCパートからのことだ。如月千早がリアルタイムに応答していた。ここからがMRライブの本領だった。

「声出しをしたいんですが、何の歌でやればいいでしょうか?」
の問いに会場からの「インフェルノ!」の声が大きかったのを拾ってInfernoの一節を歌ってみたり、
「実は今日、あまり声の調子がよくないんです……、最後の曲は「眠り姫」にしようと決めているのですが、ちゃんと歌えなかったらどうしましょう……」
の発言に対する一ファンの「オレが歌う!」というトンチキな叫びに「プロデューサーが歌う?! 大丈夫ですか? 歌詞は覚えていますか?」と返してみたり、
たまに台詞を噛んでわたわたしたりしていた。

 MCの後は千早の「Arcadia」ソロ歌唱パート。アイドルマスターにはダンスモーションの既存データが存在しない曲(音源だけはCDで出ているものの、ゲームでプレイアブルでないもの)が一定数あり、Arcadiaはその中の一つである。必然的にこれはライブ初公開の新作ダンスモーションということになる。

アイドルマスターにおける「理想的なダンス」

 MRライブで行われたダンスの話をする前に、「アイドルマスター」というゲームにおけるダンスの特性を振り返ってみよう。

 そもそもの前提として、アイドルマスターのゲームの既存のダンスモーションは、客席とのインタラクションがないのを差し引いても、現実のライブにおけるそれと質的に異なる点がある。

  • 音とモーションが別撮りなので、ライブにおける「マイクを持つ必要がある」といった制約がない
  • モーションに偶発的に生じるはずの「ブレ」がない

 まず前者について。アイドルマスターのダンスはマイクを持たず体全体を使って行われる。音楽とモーションはそれぞれの内部で最適化されており、ゲーム内のダンスはライブ映像というよりどこかMVに近い性格がある。
(※例外的に、「MUSIC♪」の振り付けはマイクを持って歌うことを意識して作られている。)

 後者について。アイドルマスターのダンスモーションでは、人間が動くときに偶発的に生じうる「ブレ」のようなものが排除されている。わかりやすい例を挙げると、ダンス最後の決めポーズの部分では止まるべきところは完全に静止しており、ぷるぷる震える、あげていた手がちょっとずつ下がってしまう、などということはない。

 両者とも、ある意味「理想的」な動きであるがゆえに「ライブ的」、「身体的」でない、と捉えられてしまう側面ととれる。

 前回の記事では「仮想空間が身体性を獲得しつつある」という話題に触れた。 xcloche.hateblo.jp

 アイドルマスターにおいても、モーションキャプチャ技術自体はハードがPS3になったあたりからダンスモーションの作成に使われているようだ。
https://www.famitsu.com/game/news/1210850_1124.html

 しかし、そうして動きをデータとして取り込んだ後、編集の過程で偶発的なブレはきれいに脱臭されて失われ、「理想的なダンス」が作り上げられてきたのだろう。ただし、ゲームというメディアに関しては、身体性が多少欠落したとしても、見た目が洗練されることのほうが望ましいという可能性もある。あるいは今後、そうした「人間的なブレ」までもがモーションとして取り入れられていく可能性もある。

"ライブ的" なライブ

 ライブの話に戻ろう。結論から言えば、MRライブのソロ歌唱パートでは、声優によるリアルタイムの音声ストリーミング(いわゆる「生歌」)、モーションアクター(おそらく声優が兼任)による(おそらく)リアルタイムのモーションキャプチャーが行われていた。

 不覚にも無念の落涙をしていて詳しいことをあまり覚えていないのだが、MCパートと同じく歌唱中にも会場とのインタラクションがあるように感じたし、歌声とモーションは強く相関しているように見えたし、モーションは「身体的」にブレまくっていた。

 印象的だったのが、曲の終了後暗転せずなめらかにMCパートに接続されたこと。歌い終わった彼女の脚はたしかにふるえており、ただ肉がないという一点を除いて、仮想のアイドルがそこに現界していた。

 これまでのアイドルマスターのライブ(声優がパフォーマーとして出演するもの)では、よく「(パフォーマーに)キャラクターが憑依している」というような言い回しが使われてきたそうだ。
 いま、劇場にいたキャラクターの3Dモデルはゲームで用いられているものと同一のものである。ゲームの「物語の登場人物」としての存在と、リアルタイムに目の前でいきいきと動く姿とがシームレスに接続され、認知が変化するのがはっきりと自覚された。

 アイドルマスターの言葉を借りれば、まさしくこれは「ライブ革命」だった。

総括

 技術的に、表情表現の相当の部分がフェイストラッキングで拾えるようになってきたし、適当な設備さえあれば、体の動きもモーションキャプチャでかなり微細に拾えるようだ。声をそのまま使うのも合わせれば、人間の感情表現の大半をアバターで代替可能な時代はすでに到来している。

 この技術は、人間がアバターをフィルタとして用いて発信するのにも有用だし、物語上のキャラクターを現実の時間軸に連れてくる未知の領域の体験をも可能にするものだ。これからもどんどん面白い展開がなされていくだろうし、そうなっていくことを期待したい。